北畑城 神戸市北区

北僧尾城・南僧尾城の東方には北畑城と東畑城がある。4城共に其の築城年代や築城目的・築城主等の城史一切不詳。記載内容は古文書・郷土史等未調査のため根拠のない推測・主観的な記述であることをお含みのうえ各自で検証願います。
     低丘陵裾北端から神社を祀る曲輪に入る(三方に切岸を落とす)
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北僧尾城・南僧尾城を約1km程東へ下ると石峯寺ですが北畑城・東畑城からも北方約1.5Km地点が石峯寺。4城共に暦応2年(1339)赤松則祐(円心の三男)との丹生寺・三津田・石峯寺の合戦に敗れたものか、当地一帯が赤松家の東播磨の拠点となった。清和源氏(満政や為義等)松井氏の氏族の流れは不詳ながら、鎌倉期に源頼朝〜南北朝期には足利氏に仕え此の地に土着した一族の城なのか?。
      二ノ曲輪への土塁虎口(墓地入口の為改修されている)
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北畑城(祠・石仏が納まるお堂<薬師堂や観音堂か?>)の建つ曲輪・土塁虎口を入ると上段に墓地・其の参詣道となる山道が南から北畑城鞍部に通じ、鞍部の右手(東)低丘陵尾根筋が既に東畑城の城域。北畑城・東畑城は二つの城というより一城別郭。南北朝期に僧兵を抱えた石峯寺の臨戦に備えた砦遺構を遺すのが東畑城?。
 鞍部へ降る北畑城側から東畑城を望む(高低差の少ない低丘陵尾根)
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三木合戦の”淡河城合戦”では淡河氏に付いたか・秀吉方の有馬氏に付き荻原城と共に淡河城付城の一つとなったものか!!?。淡河城落城の際には全面西方の淡河城側を意識した北畑城の曲輪・縄張りからは付城として使用されたものと思われ共に堀切や竪堀を見ない!!?。北畑城から尾根続き鞍部(松井株の顕彰碑?が立ち、南からの参道筋にも墓地がある)を東畑城へ向かう。


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