田 艇吉 丹波市

丹波市山南町側から笹場峠を越えると下小倉大部谷城の東麓に降りてくる。国道筋は篠山市側から鐘が坂トンネルを丹波市側へ抜けると此処:柏原町下小倉に降りてくる。田艇吉は嘉永5年(1852)9月6日氷上郡柏原藩領の大庄屋田文平季胤【田家系図には先祖忠助の長子:季繁以後に諱〈いなみ:一族のみに許される呼び名で、実名を避ける習慣からか!?”季”が冠せられており艇吉は(季剛)】の長男として下小倉に生まれ、8歳より村医の長沢順方に師事して読み書きを学び、文久3年:12歳の時に小島省斎に入門するが翌元治元年・柏原藩儒となった省斎に随して柏原に移り、明治2年には病弱の父に代り村の自治等関与するようになり、明治10年26歳で家督を相続し田家第11代当主となる。県会議員・氷上郡書記・氷上郡長を歴任し明治17年柏原銀行設立にも関与。
  JR福知山線柏原駅前に建つ艇吉翁顕彰碑
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鐘ヶ坂トンネルの開通や、旧氷上郡と阪神地区を結ぶ鉄道誘致に尽力され、阪鶴鉄道(大阪-軍都・軍港の舞鶴を結び30-37年にかけて敷設された現:福知山線の前身)、明治24年衆議院議員に当選した(当選4回・自由党)。28年住友総本店の支配人 明治37年(1904) 明治32年か?・・・阪鶴鉄道株式会社取締役社長に就任。帝国電灯・柏原合同銀行などを設立した。
  磯尾柏里作「贈・関西氷上郷友会」傘寿記念の達磨大師像
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県道改修の鐘ヶ坂トンネル開通に奔走し、工事の発起・計画促進(明治13年)に始まり明治16年(1883)に竣工を迎える。鉄道誘致にも尽力され明治28年に阪鶴鉄道株式会社を創立し取締役に就任〈明治35年迄に三選>。明治32年に柏原-福知山間が開通し・明治37年(1904)同社の取締役社長に就任された。
明治-大正時代の政治家・実業家:艇吉翁を顕彰する像は逝去一年前の昭和12年入船山の麓(柏原八幡神社下)に建立されたが、戦時中の金属回収により昭和18年供出されていたが、昭和41年に再建された田艇吉翁寿像(顕彰碑)がJR福知山線柏原駅前に建つ。
  (「松藾鶴影」艇吉翁顕彰碑建立記念特集 を参照)


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