中佐治代官屋敷 丹波市
丹波側最後の宿場町:佐治を北へ進むと県道7号と427号線が合流する小倉交差点に出る。北へは大名草集落を抜けて但馬生野へ、また西に北播磨の那珂郡や西脇市方面・交差点を右折する国道が東方・遠阪峠を越えて但馬朝来市へ向う山陰道(出雲道)。
旧山陰道は丹波守護:仁木氏が但馬へ、また山名氏が勢力を張って丹波へ向い、戦国期には黒井城主荻野氏が芦田氏等を先陣に但馬へ攻め入り、また”丹波攻め”の明智軍が押し寄せたのも遠阪峠から…古来からの主要な山陰・出雲街道は中世の丹波・但馬攻めの軍道としても利用されてきた。
代官所前の旧山陰道
この旧山陰道が一部残っているのが中佐治代官屋敷跡だが此処を知る人も・更には訪れる人も少ないと思われます!!。R427号と並行して小倉交差点から150m程?、30m程民家の間の路地を北へ入った大箕山裾を縫って通じていた。広い山道程度の約1.5m幅が嘗ての一級国道?の旧山陰道。秋葉社への参道を挟む左右にほぼ一直線に延びる道沿いに、1.5m程の高さで石積の台地が続き、更に山側には蔓草・蔦・雑草に覆われてはいるが大石も見かける高さ3m程の石垣が確認出来、秋葉社への参道脇には井戸跡?も残る。「丹波志」によると藩政時代:氷上郡の西半分(青垣町東芦田・田井縄を除く西芦田・大和田・佐治・山垣等)が正保(1644-48)の頃は未だ前期柏原藩織田家の所領だった。
しかし約50年程の天領期を経て後期織田家移封後の文化-天保(1804-1844)の頃には約100ヶ村を約30程の領主が数ヶ村や一ヶ村を複数領主が領し、佐治を柏原領・牧氏が入組、市原・中佐治は能勢氏・平岩氏・市岡氏の入組で管轄していたようです。中佐治・岡見等も貞享8年(1691)市岡氏が氷上郡に300石加増、平岩氏も元禄11年(1698)上総・相模の他氷上郡にも500石加増で此処を領し治めていた。どちらかの代官所か不詳ながら・・・近くに平岩姓をみる!!

旧山陰道は丹波守護:仁木氏が但馬へ、また山名氏が勢力を張って丹波へ向い、戦国期には黒井城主荻野氏が芦田氏等を先陣に但馬へ攻め入り、また”丹波攻め”の明智軍が押し寄せたのも遠阪峠から…古来からの主要な山陰・出雲街道は中世の丹波・但馬攻めの軍道としても利用されてきた。
代官所前の旧山陰道
この旧山陰道が一部残っているのが中佐治代官屋敷跡だが此処を知る人も・更には訪れる人も少ないと思われます!!。R427号と並行して小倉交差点から150m程?、30m程民家の間の路地を北へ入った大箕山裾を縫って通じていた。広い山道程度の約1.5m幅が嘗ての一級国道?の旧山陰道。秋葉社への参道を挟む左右にほぼ一直線に延びる道沿いに、1.5m程の高さで石積の台地が続き、更に山側には蔓草・蔦・雑草に覆われてはいるが大石も見かける高さ3m程の石垣が確認出来、秋葉社への参道脇には井戸跡?も残る。「丹波志」によると藩政時代:氷上郡の西半分(青垣町東芦田・田井縄を除く西芦田・大和田・佐治・山垣等)が正保(1644-48)の頃は未だ前期柏原藩織田家の所領だった。
しかし約50年程の天領期を経て後期織田家移封後の文化-天保(1804-1844)の頃には約100ヶ村を約30程の領主が数ヶ村や一ヶ村を複数領主が領し、佐治を柏原領・牧氏が入組、市原・中佐治は能勢氏・平岩氏・市岡氏の入組で管轄していたようです。中佐治・岡見等も貞享8年(1691)市岡氏が氷上郡に300石加増、平岩氏も元禄11年(1698)上総・相模の他氷上郡にも500石加増で此処を領し治めていた。どちらかの代官所か不詳ながら・・・近くに平岩姓をみる!!
この記事へのコメント
例年市内の古文書相談・古文書等歴史資料の調査・研究を重ねて来られている神大大学院人文学研究科等を講師に、今年も6月から歴史講座があり、11月には「旗本平岩氏の家政について」青垣町の平岩泰典氏の講座が予定されていますので聴講したいと思っています。
青垣町は足立姓(山垣城主)発祥地。市岡氏は元圧倒的に多い足立姓とのこと。帰農した地侍・豪農家庄屋であったか?、姓を賜る程の忠勤があったのでしょうね!!。市島町前木戸城主だった高橋氏も帰農していたが、湯長谷藩遠山家に仕え、依田姓を名乗っています。前木戸陣屋(代官所)は前木戸への西入口付近と聞いていますが?現状田圃の中!!。遺構らしいものはなさそうですが…
前木戸陣屋と記しているようでしたら市島町下竹田の湯長谷藩陣屋の事です。現状を知りませんが表地区のグランドあたりと聞いて古い記事ですがHP前木戸城のあと 湯長谷藩丹波国陣屋にUPしています。
→http://tanbakiri.web.fc2.com/TANBAyokominesan-docu.htm#sasido
在地代官依田氏は系図に高橋氏と依田氏 二系統があるようですが いずれも「為成」 市島町上鴨坂余田谷の余田氏(黒井城主荻野直政重臣 天正3年明智の第一次丹波攻めに落城 帰農していた)
余田氏が湯長谷藩代官職として高橋・余田姓に改姓?しての経緯等は余田文書・湯長谷藩誌?等古文書の研究が進められていることでしょう!!。
湯長谷藩は私市(福知山・綾部間)にも所領があり、長田にある高橋屋敷 →http://kirinosato.fc2web.com/KYOTOfukutiyama-sinai-siro2.htm#iwama が湯長谷藩領の代官所跡ではとおもえますが?。
前木戸は福知山市境/福知山市側には田野城があり、竹田川が土師川に合流する地点・丘陵地の北側に田野城主小野木氏の居館や高橋屋敷がある!!
高橋屋敷も 付近になにもない田圃の中…
余田氏本拠の余田谷入口(上竹田)に旧丹波志(多紀・氷上・天田郡編)にも、遺跡分布調査等資料にもない城砦があり後日UP予定です。天田郡からの侵攻を警戒する氷上郡側(主に余田氏等の砦か、のち明智方の向城に転用されている可能性大?)の砦。
但馬で訪城計画の際には 是非お誘いしたいですね
其の節には よろしく おねがいいたします