八上城:主膳屋敷

♪丹波篠山山家の猿が・・・
♪デカンショデカンショで半年暮らす・・・全国的にもよく知られた民謡のデカンショ節ですが、歌詞も多く、替え歌等種類も多い様なので、正規?の歌詞なのか・また順序もよくは知らないが、丹波杜氏<酒造りの職人(歌詞内容では出稼ぎの季節労働者)>の里として、夏のデカンショ祭り開催場所となるのが篠山城大手前(北側)の三ノ丸広場周辺。篠山城内への極く一般的な入城口・大手門から篠山城天守台(天守閣は設けられなかった)から東方(約4km)を望むと、美しい富士型の山容を見せるのが丹波富士の別名さえ有る高城山です。
  篠山城天守台側から望む八上城
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中世戦国の多紀郡(篠山市)一帯を領した波多野氏本拠の八上城が在った。丹波攻略め主将:明智光秀による籠城戦を伝える悲惨な伝承[朝路池・女畷・乙女塚・・等]もある。此の八上城の落城後・光秀家臣:並河飛騨守を城代として入れるが、本能寺の変に仆れると丹波は秀吉の配下となる。
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亀山城主(亀岡市)となった羽柴秀勝・小早川秀秋・前田玄以が八上城代を置いた。前田玄以は関ヶ原合戦に徳川家康方に通じ、戦後は本領地を安堵され病没後は三男の前田(主膳正)茂勝が継ぎ慶長7年(1602)八上城に入った。その館跡が主膳屋敷だが、慶長13年素行不良や終いには発狂のため改易となった。
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前田茂勝の後:同年に家康の実子:松平康重が笠間(茨城県笠間市)から入封し、篠山新城を天下普請で実施し翌慶長14年完成した篠山城に入り八上城は廃城となった。
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其の篠山城の大手門を基点として京街道沿いに一里ごとに里程を示す松を植え標識とした「一里塚」があり、最初の一里塚が八上城北山麓・旧街道(R372の南を並走する地区道)八上城登山スタート地点の重兵衛茶屋と、八上城砦群東端付近の芥丸への登り口・藤ノ木口(石碑・道標がある)との粗中央付近にある八上一里塚。 
  主膳屋敷背後の高い切岸上にも土塁囲みの御前屋敷が・・・
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一里塚の二番目は丹波の祇園さんで知られる波々伯部(ほうかべ)神社の制動の鳥居側にある日置一里塚。三番目は宿場町福住(福住本陣跡)の東・水無川の傍にある福住一里塚・・・と続き、其々に何代目かの松が補植され史跡を伝えています。
  前田(主膳正)茂勝供養塔背後にも土塁・上り土塁と周辺に曲輪群・・・
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重兵衛茶屋からの旧街道筋沿いに進むと春日神社前の絵図”高城山(八上城)案内図”と登山口を示す石標が立つ。堀跡から標識に従い春日神社境内横を上ると切岸上部に拡がる削平段が主膳屋敷跡。北東の高い切岸上部には御前屋敷、登山ルート沿いに主膳正(茂勝)の供養塔を見るが、背後の南・西方には土塁や数段の曲輪、登山ルートを外れた南東方へも広い数段の曲輪跡が遺る。八上落城後から政治・経済の中枢として篠山城に拠点を移すまでの城館跡です。


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