八上城:曲輪群 篠山市
篠山市の八上城は丹波市の<黒井城・南丹市の八木城とともに丹波の三大山城の一つ。三城いずれもが山域最高所に主郭を置き三方・四方へと延びる広大な山域の丘陵尾根筋に曲輪群を配し山全体を要塞化した大規模な山城です。
伝:鴻の巣(主膳屋敷から辿る尾根西未端:篠山盆地西方の監視所とされる!!?)八上城の在る高城山は其の秀麗な山容と459mの標高から”シゴク美しい丹波富士”とも称されてきました。現:国土地理院による地形図では462mなのですが…
井上靖「戦国無頼」に美しい山として描かれ、また小谷城ともに戦国の落城悲劇の舞台として登場します。
下の茶屋丸:が法光寺城砦群(八上支城だが三好勢の向城となった)を望む丹波波多野氏の出自に関しては諸説あり因幡国八上郡の公氏の一族とするもの・桓武平氏系の三浦氏とも?・同じ多紀郡内の豪族:日下部氏の庶流とも?・相模国波多野荘(神奈川秦野市)とも、石見国津和野の吉見氏とも云われる。応仁の乱で細川勝元に仕えて活躍した吉見(波多野)清秀が乱の後に細川政元から多紀郡を与えられ、子の元清が八上城西麓に八上古城の奥谷城(蕪丸)を築き初代とするものと
”中の壇”から八上城主郭山頂を望む「籾井家日記<軍記>」等に波多野経基(別名:秀長)とするものや経基の子秀長からとする系図で流れが少し変ってくる
八上城は永正5年(1508)朝路山頂に2代秀範(秀忠)が築いたとするものは3代植通・4代秀経(晴通・元秀・晴秀)と続き八上防衛施設を増強し、秀経に継子なく、因幡波多野家から秀行(別名清秀)の子を養子としたのが最後の城主5代秀治という。
上の茶屋丸(上部左手斜面に竪堀を見る)石見国の清秀が領有する多紀国へ子の元清稙通?)【兄弟に香西元盛・柳本賢治がいる】が入部して奥谷城を築き2代元春か備前守秀忠(秀範)が八上城を築き3代元秀(秀治の義父)へと城砦群を増強・増設しながら4代秀治の代に今に遺る八上城遺構が完成したものか。
伝説の磔松(光秀の母とも姥とも…)正面に茶屋の壇大手道は殿町にある八上古城の奥谷城を居館として背後の堀切から朝路池西側に延びる南尾根筋を主郭に通じていたが、蕪丸の名からは整備が進んだ街道に面した城下町側が大手筋に変わった為、出曲輪としての存在となったものと考えます。
主郭から北東尾根端の芥丸:更に藪中の踏跡下方に西藏丸将軍足利家の継嗣争い・管領家細川氏や諸大名の家督紛争による内乱・勢力・権力闘争が続いた”応仁の乱”は丹波にも飛び火し、細川高国に付いていた元清は大永6年(1526)弟:香西元盛が謀殺されると細川晴元に通じ高国勢を丹波から追放するが、浦上村宗の支援を受けた細川高国が勢力を盛り返し波多野氏は丹波を除き機内の勢力を衰退させると天文年間には執拗に攻め込む松永久秀・三好長慶等との戦闘が繰返され、弘治3年(1557)八上は落城:三好勢に奪われるが、永禄9年(1566)晴通と秀治により八上城を奪還した。
(ひょうごの城紀行・篠山市HP・Wikipedia等参照)

伝:鴻の巣(主膳屋敷から辿る尾根西未端:篠山盆地西方の監視所とされる!!?)八上城の在る高城山は其の秀麗な山容と459mの標高から”シゴク美しい丹波富士”とも称されてきました。現:国土地理院による地形図では462mなのですが…
井上靖「戦国無頼」に美しい山として描かれ、また小谷城ともに戦国の落城悲劇の舞台として登場します。
下の茶屋丸:が法光寺城砦群(八上支城だが三好勢の向城となった)を望む丹波波多野氏の出自に関しては諸説あり因幡国八上郡の公氏の一族とするもの・桓武平氏系の三浦氏とも?・同じ多紀郡内の豪族:日下部氏の庶流とも?・相模国波多野荘(神奈川秦野市)とも、石見国津和野の吉見氏とも云われる。応仁の乱で細川勝元に仕えて活躍した吉見(波多野)清秀が乱の後に細川政元から多紀郡を与えられ、子の元清が八上城西麓に八上古城の奥谷城(蕪丸)を築き初代とするものと
”中の壇”から八上城主郭山頂を望む「籾井家日記<軍記>」等に波多野経基(別名:秀長)とするものや経基の子秀長からとする系図で流れが少し変ってくる

上の茶屋丸(上部左手斜面に竪堀を見る)石見国の清秀が領有する多紀国へ子の元清稙通?)【兄弟に香西元盛・柳本賢治がいる】が入部して奥谷城を築き2代元春か備前守秀忠(秀範)が八上城を築き3代元秀(秀治の義父)へと城砦群を増強・増設しながら4代秀治の代に今に遺る八上城遺構が完成したものか。
伝説の磔松(光秀の母とも姥とも…)正面に茶屋の壇大手道は殿町にある八上古城の奥谷城を居館として背後の堀切から朝路池西側に延びる南尾根筋を主郭に通じていたが、蕪丸の名からは整備が進んだ街道に面した城下町側が大手筋に変わった為、出曲輪としての存在となったものと考えます。
主郭から北東尾根端の芥丸:更に藪中の踏跡下方に西藏丸将軍足利家の継嗣争い・管領家細川氏や諸大名の家督紛争による内乱・勢力・権力闘争が続いた”応仁の乱”は丹波にも飛び火し、細川高国に付いていた元清は大永6年(1526)弟:香西元盛が謀殺されると細川晴元に通じ高国勢を丹波から追放するが、浦上村宗の支援を受けた細川高国が勢力を盛り返し波多野氏は丹波を除き機内の勢力を衰退させると天文年間には執拗に攻め込む松永久秀・三好長慶等との戦闘が繰返され、弘治3年(1557)八上は落城:三好勢に奪われるが、永禄9年(1566)晴通と秀治により八上城を奪還した。
(ひょうごの城紀行・篠山市HP・Wikipedia等参照)
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