阪神・淡路大震災19年
西宮市内で被災した”阪神淡路大震災”からもう19年:今年は特別な思いで神戸にも行ってきた。此の日もまた・あの日と同じく白いものが舞う寒い朝・例年通り早朝に墓地へ参り:西宮市の満池谷を訪れて犠牲者追悼碑に献花してきた。
西宮市では当初4年だけは其の都度:浜甲子園・甲子園・JR西宮付近・震災記念碑除幕を兼ね?満池谷記念碑公園にと祭場を変えながらも震災犠牲者追悼慰霊祭が行なわれてきたのだが、以後の慰霊式典は7回忌・13回忌・17回忌を迎えた際にも”節目”には実施すると約されていたので20周年の来春は実施されるのかも?。”阪神・淡路大震災”との呼称が一般化されているが此のブログでは”兵庫県南部地震”と銘記してきました。
大きな被害は少なかった大阪”阪”と、大火災により被害の悲惨・甚大となった神戸”神”や震源地の淡路は勿論だが被災地は明石・宝塚・伊丹・西宮・芦屋・尼崎へと兵庫南部一帯に及ぶ兵庫県南部地震だが…1・17震災メモリアル・デーを「防災の日」イベントに組込んで一般的名称の「阪神・淡路大地震」が関心度も高く・再認識されるのなら、防災危機管理意識が鈍化していくように思え、震災の記憶を・教訓を風化させないためにも「名に拘る必要」はさらさらない!
「慰霊と復興のモニュメント」地下入口風化することのない被災家族の思い・其の犠牲の代償や経験から得た教訓。防災意識を歴史の片隅に残すことなく伝え・継承し、地震・津波・風水害・豪雪等の自然災害に対し”備えよ・常に”防災意識を持ち続け風化させてはならない事を強く感じる。”熱し易く冷め易い”実際に災害に直面しないと忘れ易い?、反対に忘れてしまいたいとの思いもある? 二つの震災被災地阪神・淡路ではオウム真理教事件等により、震災関連記事は徐々に縮小・一地方の問題として?少しずつ忘れられていったように(県外疎開しており被災地の状況が殆んど知らされない状態にはあったが!!)、東日本では原子力発電所の被災による様々な問題で被災者は置き去りされているような感があり、全てが後手に回り・その対策さえ御座成りにされているようで不安を感じる。
今後の安全性に対する対応策・除染・地元復興への継続的に続けてゆく必要のある支援活動も、東京五輪に話題にと…被災地・被災者支援が忘れられていく危機感をおぼえます。莫大な被災者支援等の募金・税金等による支援の使用用途明細についても疑問は多いところですね。西宮市からは電車の車窓に映る懐かしい六甲の山並みを望みながら神戸市に向かった。
神戸市東遊園地に神戸市以外の震災犠牲者にも、名前が刻まれたプレートの掲示が可能となった年の翌年に申込み式典にも参列した。神戸が好きで専門校や職場を神戸市に選んでいた息子が居場所ができて良かった…とも… 式典の後:家族を亡くした男性達が集まり交流する「おやじの会」への参加をH氏より誘われた。当時の名称は知らなかったが”NPO法人阪神淡路大震災「1.17希望の灯り」代表のH氏が諸般の事情で会を解散すると聞いた。
理事を務められる但馬のA氏夫妻からは毎1.17交流会へのお誘い賀状をいただき、一度は実家へもお礼に伺った事があったが無沙汰しており、A氏夫妻やH氏へも今迄のお世話に感謝の意を伝えたくて「慰霊と復興のモニュメント」の水槽に献花して地下の「瞑想空間」に息子のプレートを撫で伝えて「交流テント」を訪ねた。A氏婦人には直ぐ逢え・亡くされたご子息夫妻慰安に住まわれていた近くの川辺に植樹された桜木も随分と幹太くなってきた話等を聞いた。先程まで居られた「1.17希望の灯り」代表A氏も若い後継者に引継がれることを聞き一先ずは安堵した。
交流テントを出ると希望の灯り前に幼稚園児等が集まり”碑文の”震災の経験や教訓・継承についての「お話会」かな? 1.17希望の灯り”碑文 震災が奪ったもの 命 仕事 団欒 街並み 思い出 …たった一秒先が予知できない人間の限界… 震災が残してくれたもの やさしさ 思いやり 絆 仲間 この灯りは 奪われた すべてのいのちと 生き残った わたしたちの思いを むすびつなぐ …とあった。これ等のモニュメントが震災の経験(記憶)と教訓の継承、そして発信のトリガとして、また今後・想定されている南海トラフ地震などへの防災・減災対策に取組むべく喚起する場所でもありますように。

西宮市では当初4年だけは其の都度:浜甲子園・甲子園・JR西宮付近・震災記念碑除幕を兼ね?満池谷記念碑公園にと祭場を変えながらも震災犠牲者追悼慰霊祭が行なわれてきたのだが、以後の慰霊式典は7回忌・13回忌・17回忌を迎えた際にも”節目”には実施すると約されていたので20周年の来春は実施されるのかも?。”阪神・淡路大震災”との呼称が一般化されているが此のブログでは”兵庫県南部地震”と銘記してきました。
大きな被害は少なかった大阪”阪”と、大火災により被害の悲惨・甚大となった神戸”神”や震源地の淡路は勿論だが被災地は明石・宝塚・伊丹・西宮・芦屋・尼崎へと兵庫南部一帯に及ぶ兵庫県南部地震だが…1・17震災メモリアル・デーを「防災の日」イベントに組込んで一般的名称の「阪神・淡路大地震」が関心度も高く・再認識されるのなら、防災危機管理意識が鈍化していくように思え、震災の記憶を・教訓を風化させないためにも「名に拘る必要」はさらさらない!
「慰霊と復興のモニュメント」地下入口風化することのない被災家族の思い・其の犠牲の代償や経験から得た教訓。防災意識を歴史の片隅に残すことなく伝え・継承し、地震・津波・風水害・豪雪等の自然災害に対し”備えよ・常に”防災意識を持ち続け風化させてはならない事を強く感じる。”熱し易く冷め易い”実際に災害に直面しないと忘れ易い?、反対に忘れてしまいたいとの思いもある? 二つの震災被災地阪神・淡路ではオウム真理教事件等により、震災関連記事は徐々に縮小・一地方の問題として?少しずつ忘れられていったように(県外疎開しており被災地の状況が殆んど知らされない状態にはあったが!!)、東日本では原子力発電所の被災による様々な問題で被災者は置き去りされているような感があり、全てが後手に回り・その対策さえ御座成りにされているようで不安を感じる。
今後の安全性に対する対応策・除染・地元復興への継続的に続けてゆく必要のある支援活動も、東京五輪に話題にと…被災地・被災者支援が忘れられていく危機感をおぼえます。莫大な被災者支援等の募金・税金等による支援の使用用途明細についても疑問は多いところですね。西宮市からは電車の車窓に映る懐かしい六甲の山並みを望みながら神戸市に向かった。
神戸市東遊園地に神戸市以外の震災犠牲者にも、名前が刻まれたプレートの掲示が可能となった年の翌年に申込み式典にも参列した。神戸が好きで専門校や職場を神戸市に選んでいた息子が居場所ができて良かった…とも… 式典の後:家族を亡くした男性達が集まり交流する「おやじの会」への参加をH氏より誘われた。当時の名称は知らなかったが”NPO法人阪神淡路大震災「1.17希望の灯り」代表のH氏が諸般の事情で会を解散すると聞いた。
理事を務められる但馬のA氏夫妻からは毎1.17交流会へのお誘い賀状をいただき、一度は実家へもお礼に伺った事があったが無沙汰しており、A氏夫妻やH氏へも今迄のお世話に感謝の意を伝えたくて「慰霊と復興のモニュメント」の水槽に献花して地下の「瞑想空間」に息子のプレートを撫で伝えて「交流テント」を訪ねた。A氏婦人には直ぐ逢え・亡くされたご子息夫妻慰安に住まわれていた近くの川辺に植樹された桜木も随分と幹太くなってきた話等を聞いた。先程まで居られた「1.17希望の灯り」代表A氏も若い後継者に引継がれることを聞き一先ずは安堵した。
交流テントを出ると希望の灯り前に幼稚園児等が集まり”碑文の”震災の経験や教訓・継承についての「お話会」かな? 1.17希望の灯り”碑文 震災が奪ったもの 命 仕事 団欒 街並み 思い出 …たった一秒先が予知できない人間の限界… 震災が残してくれたもの やさしさ 思いやり 絆 仲間 この灯りは 奪われた すべてのいのちと 生き残った わたしたちの思いを むすびつなぐ …とあった。これ等のモニュメントが震災の経験(記憶)と教訓の継承、そして発信のトリガとして、また今後・想定されている南海トラフ地震などへの防災・減災対策に取組むべく喚起する場所でもありますように。
この記事へのコメント
日本人なんて普段他人ごと主義、平和ボケ、日本にいて痛ましい事件に遭った人間及び関係者を横目でみるような態度、殺人者擁護、心に傷が残る人間への神経逆撫で…。
で、こういう時だけ「絆」って、もう「笑わせるな!!」って感じです。
被災者の家財の搬出・遺体搬出等を無意識で手伝っていました。指定避難所ではないので救援物資等は届くことなく、火葬場は何日待たされるかわからない状況から、二日後には知人の好意で安置所から郷里への搬出・県外疎開へと全ては自助努力せよ・・・。県外疎開者に対する対応は無く、数ヵ月後に復興ニュースを固めて受け取った程度!!。車では被災住所へ入る事も出来ないのに、白黒コピーの○緊”緊急車両”マークのダンプ等が空いた市街地を通りぬけ、また高速道を無料で走っていた・・・。諸問題に個人的に随分と不条理・不満は残りますが、動き出さなければ何事も捗らない。被災当事者の感情を理解することは到底無理ですが、一方的な感情ではなく・共に助け・励ましていく”絆”は白々しく空虚に思える言葉ではなく・実践することに意義を感じます。何かと頻繁に使われすぎると「絆」は中国語の意味”妨げ・まつわりつく・拘束・・・”にさえ感じてきますね。