高山の里 高札場 大阪府豊能郡

高札場跡は城巡りをしていると意識はせずとも旧集落の主要出入口部には、自ずと高札場が設けられていた事が実感できるでしょう…? 過去に滋賀甲賀の石部城(善隆寺近く)の高札場跡。丹波市では(黒井城大手登山口)・大阪・信貴山麓に恩智城を訪ねた際も(黒谷地区)に見る、中世末期以後・領主が法度(法律)・掟書などを書き、一般民衆に法令を徹底させる為に掲示した板札(高札)場の跡。
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堂の左手に”丸みをもった2個程の石が力石”だが!!転がり落ちたか?・捨て置かれたものか?。高山の里に遺され掲げられる”高札”は慶応5年(1869)太政官 日向と記された「キリシタン禁制を定めた最期の高札」で、一:切支丹宗門之儀ハ是迄御禁制之通固く・一:邪宗門之儀ハ固く禁止候事 高札は明治3年(1870)廃止になり姿を消したので現在に残る数少ない遺構を伝えている。
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府道「高山」バス停側から集落内への入口に設けられた高札場からは、不動を挟んで丘陵上へと高山の棚田が拡がる。高札場は昭和52年に当時の構造のまま改築された跡、五輪塔・石仏・地蔵尊が祀られるようになった。中央の地蔵尊の蓮華坐下部にはキリシタンを表す 変形クルス紋の一部の図柄があると伝えられる。堂の傍らに並べられたように数個の石(50kg位か!!)が置かれていたのが力石で、
(豊能町教育委員会案内板等参照)
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成人を迎えた(16才)男子がこれを持ち上げると一人前と認められると以前の案内板には説明書きがあったような!、現在は廃れ、「五大力さん」等神社の祭礼にみられる力自慢の鍛錬であり・娯楽でもあり、民俗学的にも文化財価値はあると考えますが、今は”路傍の石”として捨て置かれている様…。”力石”は豊能町へ越えた野間峠口の能勢町野間中石房の辻にも、阿弥陀・六地蔵磨崖仏とは府道を挟んで野間の力石が在る。


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