高山城 豊能郡
高山城といえば岐阜県高山市か・土岐市の土岐高山城を指すのかも知れないが近畿圏内の山城巡りが主なので、余り知られることもない山城が多く・此処は北摂能勢の高山城。見るのは低丘陵部の尾根上に残る平坦地形のみ。削平・段差のある曲輪群でもあれば良し!!。しかし識者に”此は城ではない…”と云われてしまえば、専門的な経験・知識乏しく・洞察力にも劣る私にとって返す言葉もない。
主郭から高山集落…大阪府豊能郡豊能町高山の高山城とされる遺構も知名度に比し現状を、城址と見極める人がどれほどいるのだろう?と訝しく思えるほど。はキリシタン大名高山右近の生誕地と云うことで高山城を指すのではなさそう?…右近にそれほど「ゆかり深い城」とも考え難い…。高山庄の土豪高山氏が地頭代官職を得て在地支配を強めていたようで、西方寺(高山右近生誕碑の直ぐ近く)の由緒案内には応永20年(1413)高山太夫正澄が浄土真宗に帰依し俗道場を開いたのが始まりと云う。
高山城:最高所の僅かな土壇?本丸?高山の里には高札場の西方丘陵上に向山城其処から西方寺の北方へ延びる丘陵に高山城の小規模城郭があるが領主の領内監視の砦か?とても戦国動乱期を乗越えられる規模や防禦施設はない!。向山城は高山の街道筋に面し高山城が廃された後も使用されたものか?主郭前後を堀切り・堀切は土塁・土橋で主郭に渡し・左右は主曲輪を廻す帯曲輪に繋ぐ遺構を残すが高山城は主郭に櫓台か本丸?の土壇・南尾根側に堀切跡?をみるだけで城域の尾根から主郭北へ廻して尾根沿いに集落へ戻る幅広い作業林道によって旧状は不明。在地土豪:高山氏には諸説あり不詳だが:
主郭南端から作業林道傍に堀切状?をみるが…?能勢三惣領の一・余野氏の出曲輪的存在か?。高山右近誕生の天文21年(1552)頃の居館は生誕地碑のある丘が最適地に思える。父の飛騨守は永禄3年(1560)松永久秀に仕えて奈良沢城城主となり永禄10年三好三人衆との争いに落城・高山の里に帰るが翌年には和田惟政の家臣として芥川山城へ・天正2年信長の上洛に従い高槻城主に・飛騨守隠居で右近が城主となり芥川山城を廃して高槻城へ・高山飛騨守や戦国大名として活躍した右近が高山の里に留まっていたのは極く僅かな時期ではなかったか?。まして山城に拠っていたとは!?…山城の城史等詳細は郷土地誌に、高山右近についても様々な方面に研究された成果物があるのでしょう…。
主郭から高山集落…大阪府豊能郡豊能町高山の高山城とされる遺構も知名度に比し現状を、城址と見極める人がどれほどいるのだろう?と訝しく思えるほど。はキリシタン大名高山右近の生誕地と云うことで高山城を指すのではなさそう?…右近にそれほど「ゆかり深い城」とも考え難い…。高山庄の土豪高山氏が地頭代官職を得て在地支配を強めていたようで、西方寺(高山右近生誕碑の直ぐ近く)の由緒案内には応永20年(1413)高山太夫正澄が浄土真宗に帰依し俗道場を開いたのが始まりと云う。
高山城:最高所の僅かな土壇?本丸?高山の里には高札場の西方丘陵上に向山城其処から西方寺の北方へ延びる丘陵に高山城の小規模城郭があるが領主の領内監視の砦か?とても戦国動乱期を乗越えられる規模や防禦施設はない!。向山城は高山の街道筋に面し高山城が廃された後も使用されたものか?主郭前後を堀切り・堀切は土塁・土橋で主郭に渡し・左右は主曲輪を廻す帯曲輪に繋ぐ遺構を残すが高山城は主郭に櫓台か本丸?の土壇・南尾根側に堀切跡?をみるだけで城域の尾根から主郭北へ廻して尾根沿いに集落へ戻る幅広い作業林道によって旧状は不明。在地土豪:高山氏には諸説あり不詳だが:
主郭南端から作業林道傍に堀切状?をみるが…?能勢三惣領の一・余野氏の出曲輪的存在か?。高山右近誕生の天文21年(1552)頃の居館は生誕地碑のある丘が最適地に思える。父の飛騨守は永禄3年(1560)松永久秀に仕えて奈良沢城城主となり永禄10年三好三人衆との争いに落城・高山の里に帰るが翌年には和田惟政の家臣として芥川山城へ・天正2年信長の上洛に従い高槻城主に・飛騨守隠居で右近が城主となり芥川山城を廃して高槻城へ・高山飛騨守や戦国大名として活躍した右近が高山の里に留まっていたのは極く僅かな時期ではなかったか?。まして山城に拠っていたとは!?…山城の城史等詳細は郷土地誌に、高山右近についても様々な方面に研究された成果物があるのでしょう…。
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