大石良雄の石垣 多可町八千代区

小野尻峠を越え多可郡中区の北播磨余暇村公園口を抜けた高岸でR427に出る。まちの駅たかを過ぎ糀屋交差点で西脇市に向かうR427を分けて県道24号へと左折する。県道24号線はエーデルささゆりカフェ リポサーレ光竜寺城・野間山城等の赤松(在田氏)一族の山城巡りにと通った道。
  なごみの里・山都
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野間川沿い下野間で県道34号に入る。船坂峠を越え市川町に向かうルートは楊柳寺を過ぎ入浴施設もある道の駅風?都市部との交流活性化を図る施設「なごみの里・山都(やまと)」に着く。黒い木戸門を潜ると先ず目に入るのが忠臣蔵で知られる討ち入りの装束の「大石良雄」か?。”大石内蔵助ゆかりの地”西谷(さいだに)公園”を指しているイラスト看板だが、
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「山都」に寄る前に此処を通り過ぎた先を左折し幅狭い山に向かう集落内を進むと、トイレ付に駐車場に着く。目的は川筋?(池跡か?)を挟んだ斜向かいに見える高さ約8m程の石垣です。石垣全体は小ぶりの石材ながら角に算木積がみられ、上方へ急勾配を見せる”扇の勾配”が採用されている城郭石積手法の堅固なもの。藩政時代:赤穂藩の飛び地領で塩田の経営に成功した赤穂藩は、米の増産による安定した藩体制を確立する為、
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各地で溜池等の灌漑工事を行い飛地での石高も多く領地の見聞 (検分)も熱心だったようです。西谷公園に残る灌漑用ダムの石積遺構は、それらの中でも群を抜いたもので赤穂藩直轄の工事であったと思われ、此処より谷詰めの尾根を越えた加西市側麓に在る久学寺【赤穂藩浅野家の三がく寺(花岳寺・泉岳寺)の一つ】には大石良雄も工事を視察するため再三訪れていることから”大石の石垣”と呼ばれています。
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赤穂藩の飛び地領として加東市滝野町の穂積陣屋(赤穂義士の一人 :吉田忠左衛門が郡代官として在番していた)や、加西市上芥田町の奥野将監屋敷【赤穂城開け渡しでは逐電した家老大野の代理を務め大石内蔵助を補佐した奥野将監は脱盟した不忠の悪評を受けているが、大石等の一陣が吉良を撃ち洩らした際のニノ目(二番手)として別働隊を率いる手筈だったが、一陣の本願成就により、汚名を返上する手立ても無く”醜夫”の汚名に耐えて生き延びなければならなかった…】については・いずれ機会があれば…


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