首地蔵と谷風岩五郎の墓! 宝塚市

宝塚市小浜は小浜庄を開き創建された亳摂寺を中心に宗徒・町人により町場化され、他宗派や領主等からの攻撃に対する防御性を備えた天険の地形:大堀川河川段丘が形成する切岸・濠・溜池が寺内町四方を廻る全域”惣構え”の城塞都市の面影を、地形や三ヶ所に残る門跡等に留める貴重な存在。寺内町や小浜宿環濠集落は、同じ遺形を留める奈良の今井町や稗田町…等程にも知られていないように思える!?。
       亳摂寺の東門と築地塀
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惣構え寺内町は江戸時代:宿場町小浜宿としての繁栄し、主要道の山陽道(西国街道)・山陰道・京街道とは少し外れた位置だが、武庫川を”伊子志の渡し”で渡る西宮街道(馬街道)・伊丹~京伏見海道・三田や丹波方面に通じる有馬街道が小浜宿中央部で交差する交通の要衝でもある。南門跡から南へ約50m程・小浜交差点へ下る車道と市立病院側からの交差地点に古い道標と”西宮道・首地蔵”への導標が立つ。
       小浜宿
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宅地内の坂道を下りかけて直ぐ左手の石積の高台状小公園がある。西宮道は西国街道(山陽道)に通じる西宮街道(馬街道)は三田(有馬郡)や丹波方面から北門を南門に抜け出て、武庫川を越える”伊子志の渡し”へと馬車で米等が運搬されていたものか?。米商人も多く・寺内町には田圃がなく起因詳細は知らないが天明飢饉の際には米をめぐる小浜騒動も起きている。西宮街道筋を下る途中の高台に祀られているのが、なんと高さ約1m程の巨大な首だけの地蔵尊
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地蔵堂に収まる筈の地蔵尊も雨晒しのまま露座に首だけが据えられた状態。伝承のなかには坂之下の墓所(今も…)の藪の中にあったが此の高台に運び、御堂を建てて安置しょうとしたが其の大工が病気になってしまい「堂宇にはいるのを嫌って…」雨晒しになったと云う?。大工さんこそ災難で豪い迷惑…!!?な話だが、今は「首からうえの病気に霊験あらたか」といわれ「頭が良くなる」と受験生の神頼み?参詣もあるという。設置された時代等は不明だが摂陽群談(1500年ころ)にも記されている。昭和50年に拝堂の火災で地蔵のお顔が欠けたことから、近隣の人々によって新しい御影石の地蔵尊が昭和52年1月には「再建奉賛会」の手により安置され新旧:二体の首地蔵が並ぶ。
    
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首地蔵前の階段下に谷風岩五郎の墓がある。明治9年大関に昇進し四股名を谷風岩五郎(最多の98連勝記録を持つ大横綱谷風梶之助の谷風を継ぐ)と改名したのが、江戸時代末期小浜の米穀商(屋号を米鶴)に生まれ、前頭まで出世し、明治5年(1872)故郷に錦を飾り皇大神社境内で地方巡業の相撲が開催されており、この時の番付表:小濱の四股名「若柳安太郎」が小浜宿資料館に遺されています。


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