松平信孝の供養碑 篠山市
篠山市宮田地区の摂取山光照寺背後:墓所側の丘陵斜面が削平された一角に立派な笠塔婆と数基の墓碑が並ぶ。笠塔婆にはなんと!…葵紋!?文字等摩耗で判別つき難いが篠山藩主でもあった松平氏のもの!。葵紋は”蔦”だったか?”まるに利”紋と読み取れるものも!?。松平安房守信孝の供養碑元禄3年(1690)庚午年:戒名に「源松院殿従五位前房列尊誉一法樹廓居士」と刻まれ命日は十月十八日と!!。
三木(三河国)松平家初代とされる松平信孝と家族?の墓碑篠山藩歴代4代藩主で形原松平家は摂津高槻藩より松平康信が5万石で入り初代・2代:松平典信3代:典信の次男信利と其々に在職僅か3-4年の藩主を務め、康信の孫:信庸が4代目を継いでおり、東京都台東区の英信寺に祀られている松平信孝が篠山の地にも祀られている事については不詳ですが、信孝夫妻と思われる一族?家族の墓碑がたつ。藩主は篠山藩・亀岡藩を交互に務めているので形原松平家の歴代菩提寺は亀岡の光忠寺にあり、後継の藩主:青山家菩提寺となっている飛の山城南東麓の蟠龍庵は、元:松平家菩提所光忠寺だったが、篠山藩が国替えで青山家に、松平氏は亀山(亀岡市)に転封の際全て亀岡の光忠寺に移されたと云う。境内の墓碑は松平6代からのもの。三河の武将:松平信孝公の不運(悲運)に対し松平氏縁故による菩提碑は、墓石を亀岡市に移されることも無く此処に残ったものか?。松平信孝(のぶなり)は明暦元年(1655)丹波篠山藩の第2代藩主(形原)松平典信の庶長子として生まれているが、松平家ながら此処に遺されていることも・篠山藩とのつながりも一切不詳です…
なを典信の兄:信則は同初代・松平康信が建立(典信の篠山藩:形原松平2代目就任は寛文9年なので)また典信の妹は寛文11年(典信解任1年前)卒なので典信により建立されたものと思われます。
松平信孝公は形原松平家として菩提寺の三河光忠寺(蒲郡市)に一家・一族の墓碑・位牌が祀られているものか?、三木(三河国)松平家の初代として其の地(愛知県岡崎市?)の菩提寺に祀られているのでしょう?。
寛文11年(1671)駿府城代であった大叔父松平重信の養子となり、延宝元年(1673)養父の死で家督を継いでいる。江戸幕府の小姓組番頭・御側衆・書院番頭・若年寄を勤め、元禄2年(1689)には11万石の大名となり駿河小島藩の初代藩主であり、小島藩滝脇松平家初代でもあったが、翌元禄3年10月17日享年36歳で死去したが、領内に善政を布き・領民を思いやる・そして文武両道の名君であったと…若くして病死したことが惜しまれます。
(信孝についてはフリー百科Wikipediaを参照)
① 松平信孝公 碑文 笠部分の家紋は摩耗・葵と見たかったが”蔦”だったような?
②家紋[まる”利”]の様 彫浅く戒名判読も難しいが信孝公の夫人か?
参考の添付画像は削除しました。
③一番小さな墓石のみ戒名は判別できるが没年等不明 月照露天童子
④戒名等判読不能?の為 参考画像は削除
三木(三河国)松平家初代とされる松平信孝と家族?の墓碑篠山藩歴代4代藩主で形原松平家は摂津高槻藩より松平康信が5万石で入り初代・2代:松平典信3代:典信の次男信利と其々に在職僅か3-4年の藩主を務め、康信の孫:信庸が4代目を継いでおり、東京都台東区の英信寺に祀られている松平信孝が篠山の地にも祀られている事については不詳ですが、信孝夫妻と思われる一族?家族の墓碑がたつ。藩主は篠山藩・亀岡藩を交互に務めているので形原松平家の歴代菩提寺は亀岡の光忠寺にあり、後継の藩主:青山家菩提寺となっている飛の山城南東麓の蟠龍庵は、元:松平家菩提所光忠寺だったが、篠山藩が国替えで青山家に、松平氏は亀山(亀岡市)に転封の際全て亀岡の光忠寺に移されたと云う。境内の墓碑は松平6代からのもの。三河の武将:松平信孝公の不運(悲運)に対し松平氏縁故による菩提碑は、墓石を亀岡市に移されることも無く此処に残ったものか?。松平信孝(のぶなり)は明暦元年(1655)丹波篠山藩の第2代藩主(形原)松平典信の庶長子として生まれているが、松平家ながら此処に遺されていることも・篠山藩とのつながりも一切不詳です…

なを典信の兄:信則は同初代・松平康信が建立(典信の篠山藩:形原松平2代目就任は寛文9年なので)また典信の妹は寛文11年(典信解任1年前)卒なので典信により建立されたものと思われます。
松平信孝公は形原松平家として菩提寺の三河光忠寺(蒲郡市)に一家・一族の墓碑・位牌が祀られているものか?、三木(三河国)松平家の初代として其の地(愛知県岡崎市?)の菩提寺に祀られているのでしょう?。
寛文11年(1671)駿府城代であった大叔父松平重信の養子となり、延宝元年(1673)養父の死で家督を継いでいる。江戸幕府の小姓組番頭・御側衆・書院番頭・若年寄を勤め、元禄2年(1689)には11万石の大名となり駿河小島藩の初代藩主であり、小島藩滝脇松平家初代でもあったが、翌元禄3年10月17日享年36歳で死去したが、領内に善政を布き・領民を思いやる・そして文武両道の名君であったと…若くして病死したことが惜しまれます。
(信孝についてはフリー百科Wikipediaを参照)
① 松平信孝公 碑文 笠部分の家紋は摩耗・葵と見たかったが”蔦”だったような?
②家紋[まる”利”]の様 彫浅く戒名判読も難しいが信孝公の夫人か?
参考の添付画像は削除しました。
③一番小さな墓石のみ戒名は判別できるが没年等不明 月照露天童子
④戒名等判読不能?の為 参考画像は削除
この記事へのコメント
はじめまして
大変興味深く拝見させて頂きました。
確かに松平信孝は江戸下谷英信寺に改葬されています。葬地の篠山光照寺さんに墓石が残っている事を貴方様のブログで知り、他に連なっているご一族の墓石が、私の知るご戒名かもしれないと思いコメントさせて頂きました。もし、お時間があれば確認頂ければ幸で御座います。
1.寶樹院殿夏學了證居士 承応二年六月二十二日卒(松平典信の兄<早世>信則)
2.松林院殿夏月涼榮禅定尼 寛文十一年六月十一日卒(松平典信の妹<松平圖書廣良室>)
篠山藩5代(形原松平家2代目)典信の嫡男:信孝の碑が此処に祀られている事も不詳ながら
両氏の碑文等確認して お知らせいたしますので しばらくご容赦願います。
丹波で松平信孝をブログ記事にするなど超レア情報を気にする人も・目にする人もいないとおもっていました。
形原松平家初代:康信の甥・又四郎の伝承も血寄地蔵→http://kirinosato.fc2web.com/DENSETUsasayama-3.html#tiyose
青山藩の”負け嫌い稲荷”→http://kirinosato.fc2web.com/DENSETUsasayama-2.htm 伝説の中では「頼尊又四郎稲荷」として篠山城東外堀(黒岡川)側に祀られています。
改めて「松平信孝の供養碑」を再訪。墓碑画像を添えておきます。左手から順に①~⑥基の墓碑銘を寫しておりますので、マウスクリックにより画像拡大して確認してみてください。文字確認し易いように画像を少し加工してみましたが、彫浅く・また摩耗により非常に判読し辛いです。篠山藩主なり亀山(亀岡市)藩主なら位牌等で更に詳しく判るのかも?。藩主家族までとなると丹波柏原藩同様に調査不可能…状態かも?
②月照露天童子? とお知らせいただいております ⑤寶樹院殿夏學了證居士 が確認出来ました。しかし 松林院殿夏月涼榮禅定尼 の碑銘は探しても判読不可能!!? なお夫君が元禄年代卒との事なので、寛文ではなく寛保か寛延とも思えたが、それだと没後60年以上の差があり?。
●レポートを追記・補足していますので今一度 参考までに…
お寒い中、ご調査を大変ありがとうございます。
古い古い墓石が、手元の記録どおりに現存している事に驚きを感じております。
記録というのは、30年かけて調べ纏めた系譜で(昔はインターネットも無かったので膨大な時間を費やしてしまいました)、天々さまのブログを拝見しなければ知り得ない私にとりまして大変貴重な発見でした。系譜では、光照寺には信孝ほか2名の方が葬られていることが分かっています。
写真を拝見致しまして、寶樹院以外の判別は大変難しいですね。
①は確かに家紋の様に見えますが、利紋や一族が使用できる八丁子紋または蔦紋ではないように思えます。佛字の様にもみえます。
②月照露天童子・・・恐らく新たな発見です。典信公には早世した兄がもう一人います。半之丞信久と言います。葬地が記されておりませんが、もう一人の早世した兄寶樹院(半九郎信則)の事もあり、童子の墓は時代的に比定できます。
②④⑥の何れかが尼になった典信公の妹(俗称於亀)、松林院の墓だと思います。
信孝は江戸下谷英信寺に改葬していますが、奥方もそちらかと思います奥方の戒名は不詳です。信孝の義父重信(康信公の弟)の戒名は徳保院雲了良白。没年延寶元年73歳卒とありますので篠山の何処かに葬られていると思います。
光照寺様に過去帳が有れば墓の主がはっきりしますけど・・・
新たな情報がありました宜しくお願い致します。
埼玉在住 但馬
松平家の菩提と云う事で信孝が祀られていても…?と思えますが、典信より先に亡くなった次男・三男等の碑が明確でないのも気になるところです。
光照寺の近くや、末寺の一つ光明山乗願寺の山門柱側にも徳本上人の名号碑が在り、立ち寄った際に光忠寺の末寺と知りました。→ http://40437108.at.webry.info/201406/article_18.html 光照寺さんは留守でしたが、お尋ねすれば位牌等の所在や戒名等が分かったのかも?しれませんが、末寺の殆どは無住寺。ご高齢ですが篠山市の郷土史家さん に逢える機会があればお尋ねしたいと思っています。
家譜には葬地が記載されておりませんが、供養碑の残る2墓はこの2人の墓かもしれません。
昭信(五郎八・内蔵丞・山城守)寛文二年二月十三日卒 嶺揚院殿勝譽賢超大居士
親信(杢之介・石見守)寛文七年十二月二十八日卒 眞光院誠譽玄證居士
記録によると、篠山本経寺や極楽寺にも、典信妹たちが葬られたようです。
本経寺(日蓮宗)→ http://40437108.at.webry.info/201002/article_8.html は「負け嫌い稲荷」伝説で知られる「王地山稲荷社」の神宮寺!!?。篠山藩2代(藤井松平初代)の松平信吉が実母の菩提を弔うため建立した本門寺の末寺。伝説の化粧まわしのキツネ像があるので、河原町妻入り商家群散策の折り・時々覗いてみる寺でしたが、篠山藩4-7代形原松平氏【8代信岑のとき亀岡藩に移封】の墓碑が祀られていたんですね?。極楽寺は良く知りませんが篠山市西野々(福住)方面なら・亀岡藩・篠山藩が藩主交代の度に藩境界を東西にズラ(移動)した微妙な一帯。亀岡藩管轄の寺社があっても…?。本経寺さんで戒名等が確認出来れば幸いです…重ねて宿題に…
本経寺さんを葬地としたお方。
典信妹(お満方)自常院殿清雲妙浄信女 寛文二年四月六日卒。
典信妹(お千久方)天良院妙榮日心大姉 延寶七年五月八日卒。
極楽寺→戒善寺改葬
典信妹(お常方)貞梅院殿春窓知芳大姉 寛文二年十一月二十九日卒
極楽寺→円通寺改葬
典信妹(お茂宇方)圓應院殿姓泰妙惠大姉 寛文七年九月二十二日卒
葬地不詳
典信妹(お寿宇方)常照院殿月白妙光大姉 正保元年十二月二十五日卒
何か機会があった時にでもお調べ頂ければ幸でございます。
>なお夫君が元禄年代卒との事なので、寛文ではなく寛保か寛延とも思えたが、それだと没後60年以上の差があり・・・
ご指摘の件、夫君の方が長命ですね。戒名が禅定尼なので、尼かと思いましたが、3文字で位号ですね。 大変失礼しました。
寛文二年五月一に寛文近江地震が発生し、篠山も甚大な被害があったようです。末寺建立の伏線的な因果関係があるかもしれませんね。