黒田家廟所 御着城3 姫路市

御着城は別所氏の三木城・三木氏の英賀城と並び赤松氏一族の姫路城代:小寺氏が守護・赤松氏に対抗する守護代浦上氏への備えとして築いたとも、西播磨最大勢力となった小寺氏が赤松氏からの独立を狙って整備したとも云われる播磨三大城郭の一つに挙げられます。御着城跡公園二の丸には城郭イメージの姫路市役所東出張所・御国野公民館が、其の正面南には黒田官兵衛顕彰碑が立ち・直ぐ側には「メグスリの木」まで?植えられている。
        黒田官兵衛顕彰碑
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東出張所西側には落城・小寺氏滅亡後に城割された小寺氏三代(政隆・則職・政職)の御着城内に黒田家廟所があり姫路黒田家三代(重隆・職隆・?孝高<官兵衛>)の城かと思えてしまう…。黒田官兵衛ゆかりの御着城だが姫路黒田家の出自や・官兵衛自身が職隆の子なのか、播磨西脇市の黒田城主重隆の二男で職隆の養子なのか共に諸説がある。黒田家廟所に祀られる小寺氏家老で姫路城城代の黒田重隆<官兵衛の祖父>と職隆夫人<官兵衛の母>の五輪塔?。職隆の墓は妻鹿(めが)の甲府山城(功山城・甲山城・妻鹿城)に在るという<未訪>「播磨攻めで秀吉に姫路城を明渡した職隆・官兵衛父子が移った」
       黒田家廟所
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姫路市の心光寺(重隆夫妻・職隆夫妻の位牌を祀る)や西脇荘厳寺古文書資料には多可郡黒田庄(現:西脇市)の産と云い職隆は養父、実母と実父重隆を祀るのには何の疑問もないが母は明石氏?。廟所は後世:享和2年(1802)福岡藩10代藩主:黒田斉清により資材を九州から運び造営されたもので、そもそも発端は…福岡藩の藩命により貝原益軒が編纂した「黒田家譜」等によると、近江佐々木源氏の支族で祖父:重隆が備前岡山の福岡(現:瀬戸内市長船町)に移り、更に姫路に移り、広峰神社の神符と共に目薬を売って財を成したとのサクセスストーリーに繋がり、西播磨に大勢力をもつ小寺氏の信任を得て家老として姫路城代…職隆・孝高(官兵衛)と三代続いたとする通説は藩祖黒田家の事績を綴るものだけに良い事尽くめ(…美辞麗句)?に粉飾されたものになっているかも!!
則職の嫡子・政職は御着城攻めに死・次男は広峰城主として広峰氏に、三男則治は三木合戦に討死しているが、子は丹波小寺氏(丹波市)の祖となっている…!!。小寺家惣家は政職の嫡男が帰農し天川氏に改姓、次男はその後・黒田家を頼り筑前福岡に移っている様ですが、播磨小寺氏一族も帰農・浪人となったが織田・豊臣政権に叛した一族だけに、徳川の世となった藩政時代には何処かの藩主に仕えて今に続く一族もあるのでは…?。


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