秀吉の平井山本陣 三木市

平井山ノ上付城【平井城・羽柴秀吉の平井山本陣】はNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」放映(2014年)の決定を前に、三木合戦における三木城包囲作戦の戦国遺構として、三木城三木城付城群や、包囲網多重土塁群を一体として平成25年(2013)に国の史跡に指定されました。
画像
つい10数年前までは現:平井村中村間ノ山付城が秀吉の平井山本陣跡とされていたが、今では近畿自然歩道沿いの案内板や現地案内説明板は全て(伝)竹中半兵衛陣所として修正されていた。何年もかけて資料整理…等々・国指定を受ける審査は?なかなか難しい様だが、NHK大河ドラマ化の影響は絶大な様…? 里山や野にすっかり見過ごされてきた兵糧輸送阻止に対する備えか?、三木城包囲網に築かれた多重土塁群の含めての国指定…。
画像
それにしても長年疑問視されながら、近年発見された本陣跡は三木合戦中に築かれた3-40もの付城群の中でも群を抜く最大規模なもの。茶会が催されたとか・別所勢との合戦もあり、迎え撃った将兵ら数千?が駐屯していたスペースや、古墳を利用した櫓台が有った様…だとか、史実や伝承等の真意はともかく、これほどの遺構が未発見だったとは…なぜ平井村中村間ノ山付城が本陣と推察されていたのかがやはり疑問?!!だが調査に関し地権者の理解が得られなかったのかも?。
 模擬展望櫓台のある主要郭の他・切岸を落とす土塁曲輪群や無数の段曲輪が遺る
画像
10数年前:秀吉の平井山本陣としてレポートしていた誤りと、秀吉本陣跡へも遅ればせながら・官兵衛の大河ドラマ(2014年)も、既に舞台が移り此の場所のほとぼりもすっかり醒めたようなので再訪に併せて訪城した。秀吉本陣へは案内板には天正6年10月22日とあるが、天正7年2月早朝に奇襲したとも!?。この合戦では別所賀相(別所山城守吉親)が率いる別所軍が攻撃を掛け、待ち構えていた秀吉軍に大敗し長治の弟・別所小次郎治定が討死している。なを三木合戦終結後は三木城下の本町にある本要寺に本陣を移して戦後処理等がおこなわれている。


この記事へのコメント

この記事へのトラックバック