(伝)竹中半兵衛陣所 三木市
県道38号線宿原西から県道513号線に入り平井公民館の観光駐車場をスタートして竹中半兵衛の墓から国指定史跡となった秀吉本陣跡「平井城・平井山ノ上付城」へも道標に導かれるように廻ってきた。10数年前にも”平井山の本陣跡”へ案内板により訪城したことがあったが、嘗て本陣跡とされた位置より谷を挟んだ南側に秀吉の本陣跡として”平井山ノ上付城”が発見・調査された。
「近畿自然歩道」の道標に記されていた案内標識は全て”(伝)竹中半兵衛陣所”と修正され、左程広くはないが四方を低土塁で囲まれた主郭内の説明版も、立派に!!?縄張り付きの説明案内板が設置された「平井村中村間の山付城(伝:竹中半兵衛陣所)」に修正・書き換えられていた。伝承なり所縁のありそうな新池(嘉永池)のある谷を挟んで、凡そ700m程の距離に在る二つの付城ですが、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」放映により国指定史跡ともなった秀吉の本陣跡へは俄か人気スポットとして関連史跡巡りで訪れる人も多かった様?。
近畿自然歩道導標に従い鳥居を潜り、半兵衛陣所に向かうドラマも舞台は移り訪問客も少なくなった様なので来訪の機会を失したままの本陣を訪れた後、秀吉のもう一人の軍師!?(中世に軍師の呼称はなかったので軍略参謀とでも呼ぼうか!!)竹中半兵衛の墓から半兵衛が守将だったとされる平井村中村間の山付城「(伝)竹中半兵衛陣所」へも改めて再訪した。羽柴秀吉に重用され天下人に押し上げた二人の名参謀:竹中半兵衛・黒田官兵衛を二兵衛とも両兵衛ともよばれ二人が同時に仕えていた時期は此の中国毛利攻めに播磨に出陣していた際:軍議の決裂により始まった”播磨攻め”三木合戦中の短い期間だけ。
伝:半兵衛の陣所 案内板側櫓台から土塁郭内・正面に大手虎口官兵衛が荒木村重(有岡城)に幽閉されたが、帰ってこない官兵衛を疑った信長から人質となっていた官兵衛の子を殺す指示をうけていたが、半兵衛が子(後の黒田長政<豊前中津の大名>)匿っている。京都で療養中の半兵衛が秀吉の本陣に戻るが此処で病死。黒田官兵衛が有岡城から救出されたのは其の半年後。息子の命の恩人に礼を伝えることは叶わなかった。半兵衛の陣所は秀吉本陣北の守備は無論だが中村城や三木合戦前哨戦で別所氏の滅ぼされているが細川館は近く、旧赤松家・依藤氏本拠の豊地城等東播磨北方から三木城籠城に向かう別所方支援軍や兵糧の搬入阻止 ・警戒の監視に当った付城だったとは想像できます。

「近畿自然歩道」の道標に記されていた案内標識は全て”(伝)竹中半兵衛陣所”と修正され、左程広くはないが四方を低土塁で囲まれた主郭内の説明版も、立派に!!?縄張り付きの説明案内板が設置された「平井村中村間の山付城(伝:竹中半兵衛陣所)」に修正・書き換えられていた。伝承なり所縁のありそうな新池(嘉永池)のある谷を挟んで、凡そ700m程の距離に在る二つの付城ですが、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」放映により国指定史跡ともなった秀吉の本陣跡へは俄か人気スポットとして関連史跡巡りで訪れる人も多かった様?。
近畿自然歩道導標に従い鳥居を潜り、半兵衛陣所に向かうドラマも舞台は移り訪問客も少なくなった様なので来訪の機会を失したままの本陣を訪れた後、秀吉のもう一人の軍師!?(中世に軍師の呼称はなかったので軍略参謀とでも呼ぼうか!!)竹中半兵衛の墓から半兵衛が守将だったとされる平井村中村間の山付城「(伝)竹中半兵衛陣所」へも改めて再訪した。羽柴秀吉に重用され天下人に押し上げた二人の名参謀:竹中半兵衛・黒田官兵衛を二兵衛とも両兵衛ともよばれ二人が同時に仕えていた時期は此の中国毛利攻めに播磨に出陣していた際:軍議の決裂により始まった”播磨攻め”三木合戦中の短い期間だけ。
伝:半兵衛の陣所 案内板側櫓台から土塁郭内・正面に大手虎口官兵衛が荒木村重(有岡城)に幽閉されたが、帰ってこない官兵衛を疑った信長から人質となっていた官兵衛の子を殺す指示をうけていたが、半兵衛が子(後の黒田長政<豊前中津の大名>)匿っている。京都で療養中の半兵衛が秀吉の本陣に戻るが此処で病死。黒田官兵衛が有岡城から救出されたのは其の半年後。息子の命の恩人に礼を伝えることは叶わなかった。半兵衛の陣所は秀吉本陣北の守備は無論だが中村城や三木合戦前哨戦で別所氏の滅ぼされているが細川館は近く、旧赤松家・依藤氏本拠の豊地城等東播磨北方から三木城籠城に向かう別所方支援軍や兵糧の搬入阻止 ・警戒の監視に当った付城だったとは想像できます。
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