横田城  丹波市

八上城(篠山市)波多野秀治は知られるが:丹波市にも氷上城に拠った波多野宗高(西波多野氏)がいた?。西波多野氏は三代続いたが信長の「丹波攻略」に滅亡した?。其の氷上城が霧山城にあったのか横山城(カンジョウジ城?)であったか幻の氷上城議論で今も分かれる!?。霧山城は以前から遺構はなく城ではない…?とか、
    黒井盆地(中央の尖峰は千丈寺砦・右手の黒井城が見えない!)
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周辺山麓に一族の菩提寺がなく初代の宗高は実在の人物だったかも判然とはしない。永禄3年(1560)正親町天皇即位に際し荻野直政らと丹波の諸城主を動かし、警護にあたった忠勤により「正四位・侍従の位」を賜る波多野宗高だが?。
      横田城:低土塁状は屋敷の敷居跡?、後方は向山連山
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また横田城も「ひょうごの城紀行」・「県の中世城館・荘園遺跡」には赤井・荻野ゆかりの城砦とあるが、櫓台を備えた縄張りは長さ約85m・幅約30mの長大な平坦地形を持つ単郭の城砦。低段差ではあっても段曲輪・腰曲輪や帯状曲輪はなく・防禦施設の土塁や堀切・竪堀・虎口の類を見ない!?。南側案内板付近の平地に極低土塁をみるが仕切土塁?と云えるほど明確でなく屋敷跡の敷居程度?で赤井・荻野関連山城にしては珍しい!!。
       城山三角点(櫓台)から向山連山
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三角点標が埋まる櫓台の最高所以外北の黒井側が少し高くなって曲輪が延び、南側端が通路だったと思われる。野山城~霧山城への縦走路を北に降る鞍部に深い片堀切(本郷の一宮熊野神社へ降るカンジョウ坂?)が「大手堀切道」だったか。主郭の櫓台土塁・DoCoMo向山無線中継塔や向山配水施設が建つ南側尾根筋の丘陵南端に土壇・土塁状曲輪?と小曲輪を2段程見る。
      北端の櫓台から案内板の立つ南方へ延びる約80m程の平坦曲輪
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横田城<氷上町石生新町・横田>は石生と横田を結ぶR175号稲継から春日町に入る城山トンネル上に位置して、氷上/黒井の盆地を望む町界尾根上の城山展望所だけに眺望に優れ・山陰道の要衝でもある領内監視と 分水界をも一望出来る軍事的にも要地は、特に黒井城攻めでは西・南方の喉元を押さえる双方にとって最重要拠点。「丹波志」に乾ノ峯ともよばれ豊臣秀吉公陣場ともある!?。
        黒井盆地側の切岸
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城郭研究T氏はカンジョウジ山城(乾ノ山城)を充てる。カン=乾として仮説・補足すれば荻野直正出生地の後屋城・白山城や高見城・母坪城(氷上町)等赤井氏の氷上町側諸城がある方位をの方向とすれば、直正本拠城は猪の口山の黒井城(春日町)は、戌と亥の間が氷上町と春日町の町堺に位置するカン=「の山の城」と…カンジョウ(乾城)xxxの仮称にまで漕ぎつけた。後は最後のジ!?だが:寺に関するものはなさそう?…それに赤井・荻野方城塞と考えると少し特異な城に映る。
      櫓台からの北尾根鞍部:片堀切状登山道は堀切道だったか?
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氷上盆地・黒井盆地を東西に分けて南方には高谷j川が加古川へ、東側には向山連山の山麓とは僅か700m程の山間を、由良川源流の黒井川が流れ出る分水界を成しています。この山間を氷上・黒井側へ抜ける街道は他になく・間道は山越えとなる。黒井城攻めの織田勢にとっては攻撃に絶好の拠点。赤井勢にとっても侵入阻止の為死守すべき玄関口。豊臣?(未だ羽柴だが)秀吉は別所氏攻めの三木合戦の最中…、丹波に入る事はなかった筈?。明智勢の援軍として播磨方面から侵攻してきた羽柴秀長軍が黒井城西方(氷上町側)の諸城を攻略し、赤井・荻野方の砦だった此処を奪取して改修・布陣したものと思えた。



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