丹波八宿まつり 2014
青垣町佐治(丹波側最後の宿場町)を主会場に例年11月初めの日曜日か文化の日に行なわれてきたのが丹波八宿まつりこの日には但馬朝来市に越える丹波側最奥の遠阪今出の熊野神社で行われる裸まつり、丹波市紅葉三山の一:高源寺へのバスも運行されていたが今年の丹波八宿まつりは第二日曜の9日に順延?された。
しかも天気予報は前々日あたりから雨予報・バス回送も中止された。予定されていたイベントの中止?やプログラムの進攻順序も変更され、旧佐治宿場内の民家やガレージ等を利用して出店されているのは・何時も馴染みの店ばかりだが、それでも数店の空が目立つ。出足もまばらで人出はあまり揮わない。
…が青垣町住民センターでは作品発表展・演劇・コーラス?等催しのオープニングには青垣翁三番叟の実演もされていた。此の様な雨模様の一日だったが年齢・性別や服装・仮装等に無制限の飛脚リレーが始まり先ずは活気付く。雨で濡れた箸・皿の中の(以前は皿内に書かれた数だけ…なんてルールもあったが)アズキを別皿に移し終えた順にスタートしていく。飛脚の挟み箱を模したバトンをリレーしてゆく。
三か所に関所があって籤引きの色や・ダーツの的の色で遠回り・近道コースに分かれる。以前にはジャンケンでコースが決まるゲームもあった。一チーム5人のリレー参加者の一人に”通行手形”が持たされており、三ヶ所のポイントの何処で使用しても良いが一回限りだが見せればゲーム無で最短コースに向かえる。一番遠回りのなるのはどの関所だろう?。
リレーは佐治商家街の中を北に向かい東側を流れる加古川(旧佐治川上流部の神楽川)沿いに南下して商家街を周回する。スタートして直ぐ第一関所での「遠回り」は商家街北の古い石道標を但馬街道に向かい加古川沿い。
丹波八宿 青垣の秋2013 丹波八宿まつり 2011 丹波八宿 青垣の秋2010
「近回り」コースと合流して第二関所の神楽橋・続いて第三関所の菊の下橋でも遠い・近いのコースに分かれる。下の画像は菊の下橋から堰堤施設から魚の遡上(遡行)を援ける魚道と神楽橋を望む。青垣ボランティア・ガイドのグループでは、丹波八宿には御誂え向き?…”伊能忠敬 青垣を行く”テーマでの研究発表がされた。
二つの橋の伝承は丹波八宿 青垣の秋2013を参照願います
延喜式山陰道の駅家(うまや)が在った佐治宿は、京を発った山陰道・但馬街道の八番目の宿場町として・また丹波側最北端の宿場が旧街道の面影を残す佐冶宿。北へは遠阪峠を越えて但馬朝来市に至る宿場町佐治を抜けた三叉路に立つ石道標がこれ等を繋ぐ要衝の地でもある事を示します。
今回は丹波八宿(延喜式山陰道)ではなく…文化11年(1814)1月初め”測量方(天文方?)御用”の幟旗を先頭に丹波測量に入った伊能忠敬は山南町和田・柏原町鴨野・氷上町桟敷から青垣町佐治-遠阪を但馬に入り後:福知山から春日町多利・国領・黒井を本陣とし、柏原町から鐘ヶ坂を越え篠山市側追入(大山)に向かっている。伊能忠敬の氷上郡(丹波市)内での八宿に充てられているよう。
佐治宿内の旧但馬街道(鳥居横の細道から山際を)八柱神社側へ…
200年前の江戸時代中期:初めて実測され、天体観測による位置補正により誤差も非常に少なく正確な日本地図作製の大事業には世界的にも評価されるところです。測量隊の通行筋となる村々で一行の受入れ・送出しに当たって接待全般の苦労話も今回のテーマ解説の主要なところ!!。丹波青垣の伊能忠敬の行動等研究説明を聞く前には、忠敬一行が食したであろう献立の中から蕪と花鰹の汁椀が振舞われ、秋雨で少し冷え気味の体には美味しく温かく・待つ間もホッとするひと時を過ごせた。実行委員会のスタッフの皆様ご苦労様・ありがとうございました。
しかも天気予報は前々日あたりから雨予報・バス回送も中止された。予定されていたイベントの中止?やプログラムの進攻順序も変更され、旧佐治宿場内の民家やガレージ等を利用して出店されているのは・何時も馴染みの店ばかりだが、それでも数店の空が目立つ。出足もまばらで人出はあまり揮わない。
…が青垣町住民センターでは作品発表展・演劇・コーラス?等催しのオープニングには青垣翁三番叟の実演もされていた。此の様な雨模様の一日だったが年齢・性別や服装・仮装等に無制限の飛脚リレーが始まり先ずは活気付く。雨で濡れた箸・皿の中の(以前は皿内に書かれた数だけ…なんてルールもあったが)アズキを別皿に移し終えた順にスタートしていく。飛脚の挟み箱を模したバトンをリレーしてゆく。
三か所に関所があって籤引きの色や・ダーツの的の色で遠回り・近道コースに分かれる。以前にはジャンケンでコースが決まるゲームもあった。一チーム5人のリレー参加者の一人に”通行手形”が持たされており、三ヶ所のポイントの何処で使用しても良いが一回限りだが見せればゲーム無で最短コースに向かえる。一番遠回りのなるのはどの関所だろう?。
リレーは佐治商家街の中を北に向かい東側を流れる加古川(旧佐治川上流部の神楽川)沿いに南下して商家街を周回する。スタートして直ぐ第一関所での「遠回り」は商家街北の古い石道標を但馬街道に向かい加古川沿い。
丹波八宿 青垣の秋2013 丹波八宿まつり 2011 丹波八宿 青垣の秋2010
「近回り」コースと合流して第二関所の神楽橋・続いて第三関所の菊の下橋でも遠い・近いのコースに分かれる。下の画像は菊の下橋から堰堤施設から魚の遡上(遡行)を援ける魚道と神楽橋を望む。青垣ボランティア・ガイドのグループでは、丹波八宿には御誂え向き?…”伊能忠敬 青垣を行く”テーマでの研究発表がされた。
二つの橋の伝承は丹波八宿 青垣の秋2013を参照願います
延喜式山陰道の駅家(うまや)が在った佐治宿は、京を発った山陰道・但馬街道の八番目の宿場町として・また丹波側最北端の宿場が旧街道の面影を残す佐冶宿。北へは遠阪峠を越えて但馬朝来市に至る宿場町佐治を抜けた三叉路に立つ石道標がこれ等を繋ぐ要衝の地でもある事を示します。
今回は丹波八宿(延喜式山陰道)ではなく…文化11年(1814)1月初め”測量方(天文方?)御用”の幟旗を先頭に丹波測量に入った伊能忠敬は山南町和田・柏原町鴨野・氷上町桟敷から青垣町佐治-遠阪を但馬に入り後:福知山から春日町多利・国領・黒井を本陣とし、柏原町から鐘ヶ坂を越え篠山市側追入(大山)に向かっている。伊能忠敬の氷上郡(丹波市)内での八宿に充てられているよう。
佐治宿内の旧但馬街道(鳥居横の細道から山際を)八柱神社側へ…
200年前の江戸時代中期:初めて実測され、天体観測による位置補正により誤差も非常に少なく正確な日本地図作製の大事業には世界的にも評価されるところです。測量隊の通行筋となる村々で一行の受入れ・送出しに当たって接待全般の苦労話も今回のテーマ解説の主要なところ!!。丹波青垣の伊能忠敬の行動等研究説明を聞く前には、忠敬一行が食したであろう献立の中から蕪と花鰹の汁椀が振舞われ、秋雨で少し冷え気味の体には美味しく温かく・待つ間もホッとするひと時を過ごせた。実行委員会のスタッフの皆様ご苦労様・ありがとうございました。
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