国領城 丹波市
北近畿自動車(舞鶴若狭道)春日ICをR175号に出て道の駅「丹波おばあちゃんの里」出入口前の車道を春日町棚原か、県道69号線なら舞鶴若狭道を潜って直ぐ「国領」交差点を左折する車道は橋を渡った先の四辻(料亭辻判)があり旧街道筋・巡礼道の石道標があった筈だが?)で右折して「東中」交差点へ出る地区道を進むと長谷山流泉寺(曹洞宗)の山門前・駐車場の塀の上に観音像が見える。
境内に入れば判るが観音像と続いてL字状石積に囲まれて本堂の南面の墓石が並ぶ。枡形・L 字角に祀られる石碑には法名孤舶釣月と刻まれた墓碑がある。三尾城主赤井刑部幸家を祀られる。黒井城主赤井直正の弟で、明智光秀の第二次丹波侵攻には直正の病死を隠し通して黒井城守将として采配していた。落城の際には追手を避け四国へ逃れた後、篠山の三尾山弘誓寺に逗留したものか?、立派な!!笠塔婆の”孤舶釣月”赤井幸家の墓碑が立つ。
幸家の墓碑 弧舟釣月…
国領城は三尾城主:赤井幸家が下屋敷として創築した平城で、現状南から西角を北へ高さ約3m・幅5m程の土塁を廻す。本堂南に幸家らの墓碑が並ぶ石積段は其の土塁。西角から北へは民家と寺側土塁の間に空堀が残っていたが、民家は最近撤去され堀の南部は更地で殆ど跡形なし。
長谷山流泉寺は元:国領温泉側・高尾山腹に在って、長谷城(高尾城)の秋山修理大夫の菩提寺だった。長谷城落城説は二通りあるが、其の一つ:落城悲話伝承は天文年間:荻野秋清(黒井城主)が八上城主:波多野晴通の侵攻に怖れて、 なんの手立てもせず家臣秋山氏の高尾城が落城・炎に包まれるのを、黒井城から傍観:救援しなかったという。其の後”朝日城主:才丸(荻野直正)”により秋清は誅殺されるが、家臣の多くが秋清に不信・不満をもっており、新頭首才丸(直正)は秋清に代わって黒井城主として迎えられた。
天正6年(1578)荻野直正は病死・弟の幸家が城代として黒井城に入り三尾城は柳田・玉置等が留守部隊として拠っていたが天正7年黒井城と共に落城、終に丹波も平定されるが、高尾城も三尾城共にこの時落城したとの伝承もある。果たして…!?
境内に入れば判るが観音像と続いてL字状石積に囲まれて本堂の南面の墓石が並ぶ。枡形・L 字角に祀られる石碑には法名孤舶釣月と刻まれた墓碑がある。三尾城主赤井刑部幸家を祀られる。黒井城主赤井直正の弟で、明智光秀の第二次丹波侵攻には直正の病死を隠し通して黒井城守将として采配していた。落城の際には追手を避け四国へ逃れた後、篠山の三尾山弘誓寺に逗留したものか?、立派な!!笠塔婆の”孤舶釣月”赤井幸家の墓碑が立つ。
幸家の墓碑 弧舟釣月…
国領城は三尾城主:赤井幸家が下屋敷として創築した平城で、現状南から西角を北へ高さ約3m・幅5m程の土塁を廻す。本堂南に幸家らの墓碑が並ぶ石積段は其の土塁。西角から北へは民家と寺側土塁の間に空堀が残っていたが、民家は最近撤去され堀の南部は更地で殆ど跡形なし。
長谷山流泉寺は元:国領温泉側・高尾山腹に在って、長谷城(高尾城)の秋山修理大夫の菩提寺だった。長谷城落城説は二通りあるが、其の一つ:落城悲話伝承は天文年間:荻野秋清(黒井城主)が八上城主:波多野晴通の侵攻に怖れて、 なんの手立てもせず家臣秋山氏の高尾城が落城・炎に包まれるのを、黒井城から傍観:救援しなかったという。其の後”朝日城主:才丸(荻野直正)”により秋清は誅殺されるが、家臣の多くが秋清に不信・不満をもっており、新頭首才丸(直正)は秋清に代わって黒井城主として迎えられた。
天正6年(1578)荻野直正は病死・弟の幸家が城代として黒井城に入り三尾城は柳田・玉置等が留守部隊として拠っていたが天正7年黒井城と共に落城、終に丹波も平定されるが、高尾城も三尾城共にこの時落城したとの伝承もある。果たして…!?
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