黒井城Ⅰ 主郭 丹波市

天空の城として此処数年ですっかりツアー客でごった返す超有名な観光地となってしまった竹田城は盆地に囲まれた円山川の川霧の中に浮かぶ幻想的な姿には誰もが魅了されることでしょう。但馬竹田駅ではなく丹波にも丹波竹田駅がある。
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但馬の竹田城に行く予定の観光客が間違えることもあると聞くが、福知山線で大阪方面からなら二駅手前・黒井駅に降り立てば北方間近に黒井城(保月城)の在る猪ノ口山(城山)が迫る。勿論:南に黒井盆地・北には今年台風による大洪水・土砂崩れの大災害に被災された五大山の氷上側・市島川山麓・徳尾方面を真っ白に霧海に覆い隠され、福知山市境の親不知や福知山市の烏ヶ岳・鬼ヶ城の二峰も丹波の霧海に浮かぶ。黒井城もまた天空の城の風情を醸し城下は霧海の底。
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但馬山名氏の城:竹田城を丹波三郡「氷上郡・天田郡・何鹿郡」を領し、織田信長に命に服し三郡を安堵されていた丹波の赤鬼が攻め落としている。山名氏が但馬を越え郡境の山垣城(全国足立姓の元祖・足立遠政の城)に侵攻してきた。
     三ノ丸から四ノ丸と霧海(右に三尾山・多紀アルプス・左に妙高山)
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丹波の赤鬼の異名を持つ黒井城主荻野直正は丹波鬼の将兵を率いて山垣城を救援し山名氏を撃退し、反撃に転じて竹田城を落とし山名氏本拠の此隅山城に迫った。山名氏は織田信長に救援を要請し丹波攻略の期を得て!信長は天正3年(1575)明智光秀を総大将に丹波攻略を開始する。翌4年1月:光秀に従っていた
       本丸南面(奥)と二ノ丸南面・東面の石垣
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丹波八上城主(多紀郡・篠山市)波多野氏により突然背後をつかれた明智軍は総退却・光秀も命辛々鼓峠を越え逃れ、一次合戦を勝利?した戦いは真相はともかく”赤井の呼び込み戦法”と云われる。黒井盆地を見下ろす本丸から四ノ丸・東曲輪にかけての主郭部は城下を睥睨する南面に石垣を積み上げ威圧しているが、
     東曲輪の虎口(多田方面)石垣と三ノ丸東面の石垣
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反対に北面は石垣の無い(土塁固めの石積・石列を見る程度)半ば張りぼて状態に見える城だが、北面の切岸は下草に覆われているが岩盤が防御を固めている。本丸とは堀切を挟んで同規模の曲輪が二ノ丸を南に廻り込み・石積階段を本丸に入る曲輪が石垣構の防備重要遺構からも・石段側の方形石垣は本丸内に櫓台跡らしいものが此処にしかなくさらには天守台の祖形とも考えれば二ノ丸と読み変えて、強ち間違いでもなさそう…。見どころは本丸と三ノ丸とを繋いで、
        二ノ丸に突き出す方形石垣は天守台の祖形か?
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三方を石垣で積み上げ南に突き出すように確保された二ノ丸(南面石垣の一部崩壊は残念ですが)。東側は土橋付空堀、二ノ丸から石積階段虎口を上がる本丸の東南角には方形の石垣が遺る。主郭部ほぼ中央に見える空撮の画像では、石垣・空堀で固められた此の一画だけが少し盛り上がる。石垣が崩れ喪失している様で、元の状態さえ推し量れないが築城時代的にも、天守台の祖形が窺われる
   本丸堀切から三の丸と北段曲輪(蔵跡!!)と帯曲輪
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主郭の空堀北面の切岸下の帯曲輪には以前(今も?)瓦片が散乱しており、西曲輪と四ノ丸側から通路がある。帯曲輪内・三の丸北の切岸沿いには防御壁兼ねて瓦葺きの武器庫や食料備蓄倉庫群が並んでいたのかも?。ただ遺構が黒井城落城後・明智光秀の城として改修・改築され使用されているので、天守祖形や瓦葺建築物についての真の考証は専門家の研究に委ねるしかないが…


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