柚津城  丹波市

黒井城を間近に望むR175号線から三尾山(三尾城)北山麓を、篠山市や船井郡京丹波町へ抜ける県道69号線で国領に向かう。進修小学校の北側:国領川沿いから見た城ヶ腰城へ寄った後、其の東側丘陵上の柚津城へも寄ってみる。柚津城もまた以前:野々間南城館から辿った点名柚津 (3等三角点269m)を南へ突き出す丘陵東側の南末端の228m峰に在る。
        柚津城主郭北面の切岸
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今回の再訪でも比高僅か120m程だが・柚津公民館側からの取付点探しには困る。以前に侵入した入口近くの山道は直ぐ荒れた畑・その先は猛烈な藪…と急登が待っている。今度も公民館北方の神社から辿るが、更に祠脇からの迂回尾根を辿ってみた。城跡からは外れていくばかり。本拠城:黒井城側の展望は望めるが。
         柚津城主郭
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「丹波志」に近藤丹後守の居館跡と記されているだけで、築城時期等は不詳ですが、尉ヶ腰城と同様に要衝の街道筋を守備した三尾山城の支城として、赤井幸家の支配下にあったもので、天正7年(1579)の黒井城攻めの際に三尾城と共に落城したと思われます。此処:春日部荘の総社は春日神社。永禄11年(1568)関白近衛前久は足利義昭により朝廷から追放され、 信長に帰洛を許される天正3年(1575)まで春日部荘に住んでおり、黒井城主:赤井直正の妻は近衛家の出。近衛家に随行してきた近藤氏が 赤井直正夫人付として柚津の地に残ったものか?。
        柚津城主郭から南正面の三尾山()を望む
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!!。「丹波志」による近藤氏の家紋は「丸に鹿角」という。此処より東並びの鹿場西城館・鹿場東城館(春日町鹿場中地)も近藤氏関連の城館かと思わせるが”鹿”は単に偶然か?。尉ヶ腰城と同様に要衝の街道筋を守備した三尾城の城砦として赤井幸家の支配下にあったもので、 天正7年(1579)の黒井城攻めの際に三尾城と共に落城したと思われます。近藤丹後守を先祖とする近藤家の本家には五人張りの弓が遺されていたという。尉ヶ腰城には黒井城と三尾城の中間にあって両城へ矢文の受け渡しを行なった矢継ぎの城の伝承を彷彿とさせる
       主郭より西尾根側に3段程の曲輪が並ぶ
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踏み跡薄く・薮で消えた尾根筋も山頂部が近づくと道は無くとも歩き易い。直ぐと頂部が城塞と判る低いが切岸が見えてくる…とはいえ、主曲輪から西への尾根筋に3段程の段曲輪を確認する程度で、土塁・空堀・竪堀等城塞遺構はない。赤井・荻野一族以外の領主の築城・改修に対しては、久下氏の玉巻城をはじめとして、築造に当たっての防御施設等補強は許されなかったものか…?。


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