久保城 綾部市
R27号(舞鶴道・丹後街道)の「上杉交差点」を府道481号に入って約350m程の所に上杉天満宮が在る。境内を含む一帯には何鹿郡八田郷のうち、上杉荘を領して上杉弾正少弼朝定が此処を居館とした弾正屋敷跡がある。
自然を要害上に在る久保城八田郷上杉荘の上杉氏・足利氏について・また安国寺・足利尊氏生母:上杉清子と上杉朝定については上杉荘の城に纏めた上杉弾正屋敷…等を参照願います。天満神社前から府道481号を東へ約200m程に上杉荘(上杉・大石・久保・小嶋・施福寺・能勢・遠路)の総社:八坂神社が鎮まる。八坂神社を中央にして西に今北砦・北に上杉居館と八田城・八田城から尾根続き府道481号沿いには治部ヶ尾城(今回は未訪)・天満宮と八坂神社の南側丘陵上には久保城<上杉町久保・清水奥・布垣>が在る。
4つの城塞により四方を囲まれる中心地!!?上杉荘は、建長4年(1252)宗尊親王(嵯峨天皇の皇子)の介添えで鎌倉に下った功に寄り賜った上杉荘も、上杉氏と同じく足利尊氏の重臣:仁木氏の領有地となっていたが仁木氏一族の没落に寄り応永5年(1398)足利義満により上杉氏に充行われた「八田郷本郷」の地と考えられている。八田郷本郷は応永19年(1412)にも将軍義持により安堵されている。
単郭の城ながら今日廻ってきた上杉荘内の城砦には顕著に残っていない曲輪の切岸・土塁・虎口状・上り土塁等の現状遺構からみても、其の後の状況等・城史一切は不詳ですが何鹿郡国人領主として勢力を張った大槻氏:高城城の支城として改修されたものではないかと…?。
低土塁から向かいの吊り尾根先峰へも南面は自然の切岸永正3年(1506)細川政元の丹後守護一色氏攻め際には丹波守護代内藤氏の幕下に、また以降若狭の逸見駿河守(砕導山城)との交戦もあり、丹後・若狭側の最前線基地ともなって使用されたものとも思える?。
自然を要害上に在る久保城八田郷上杉荘の上杉氏・足利氏について・また安国寺・足利尊氏生母:上杉清子と上杉朝定については上杉荘の城に纏めた上杉弾正屋敷…等を参照願います。天満神社前から府道481号を東へ約200m程に上杉荘(上杉・大石・久保・小嶋・施福寺・能勢・遠路)の総社:八坂神社が鎮まる。八坂神社を中央にして西に今北砦・北に上杉居館と八田城・八田城から尾根続き府道481号沿いには治部ヶ尾城(今回は未訪)・天満宮と八坂神社の南側丘陵上には久保城<上杉町久保・清水奥・布垣>が在る。
4つの城塞により四方を囲まれる中心地!!?上杉荘は、建長4年(1252)宗尊親王(嵯峨天皇の皇子)の介添えで鎌倉に下った功に寄り賜った上杉荘も、上杉氏と同じく足利尊氏の重臣:仁木氏の領有地となっていたが仁木氏一族の没落に寄り応永5年(1398)足利義満により上杉氏に充行われた「八田郷本郷」の地と考えられている。八田郷本郷は応永19年(1412)にも将軍義持により安堵されている。
単郭の城ながら今日廻ってきた上杉荘内の城砦には顕著に残っていない曲輪の切岸・土塁・虎口状・上り土塁等の現状遺構からみても、其の後の状況等・城史一切は不詳ですが何鹿郡国人領主として勢力を張った大槻氏:高城城の支城として改修されたものではないかと…?。
低土塁から向かいの吊り尾根先峰へも南面は自然の切岸永正3年(1506)細川政元の丹後守護一色氏攻め際には丹波守護代内藤氏の幕下に、また以降若狭の逸見駿河守(砕導山城)との交戦もあり、丹後・若狭側の最前線基地ともなって使用されたものとも思える?。
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