馬背山城と堡塁 丹波市
昨年末(2014.12.27)に登った干支の山(馬背山)のUPです。数回訪れた高見城城塞群の一つで高見城山の山頂より望む北方:高見城山から尾根続きに目立つ急峻な鞍部からの上り尾根・谷から一挙にそそりたつ大岩壁を覗かせる山塊の山上付近にも:馬背山城(仮称)と馬背山堡塁(仮称)城郭遺構があり過去のブログに行者山城として紹介していた。
西尾根筋から馬背山堡塁のあるピークと右手に高見城を遠望氷上郡(丹波市)遺跡分布図にも馬背山城付近は高見城の城砦遺構範囲対象外?だが、尾根筋を僅か5-60m程にある二つ目?の瘤(岩頭部)傍に馬背山堡塁がある。佐野城と呼ばれていた仁木頼章が居た高見城の頃の釘貫門(大手門)跡とも思える。
高見城から馬背山・正面奥に赤井氏発祥地の赤井野と白山…が両城名自体も殆ど知られていないので補足:高見城の出曲輪ではなく・固有の独立した城郭の位置付けから高見城支城として命名(仮称)します。行者山(馬背山)には役行者が祀られていたのを、山頂から北へ高度を落としながら萱刈坂(峠)へと延びる北尾根上の”行者堂”(祠内に役行者像が祀られている)に遷されたと云う。
馬背山城(主曲輪から東曲輪<南段曲輪側に土塁アリ>)行者山から高見城の旧名(佐野城)が示す旧大手筋の佐野集落へ向かう岩稜の西尾根の山容からも:古名の馬背山(馬瀬山)を呼称するが、三角点はなく点名表記もない山名空白地帯で城跡も城史不明の為・共に仮称で表記します。
馬背山城(西面の主曲輪切岸) 尾根西端の聳立岩壁上には馬背山城の出曲輪?か、細く両端が切れ落ち西尾根筋前面を防御する石積のある馬背山堡塁(仮称)改名>だが、馬背山には平安時代:延喜年中(901-923)に安楽寺(創建等の由緒不明の廃寺)が在ったと云い、南北朝時-室町期の寺院を城塞化した典型なのかも!!。詳細はホームページの山城レポートに名称等置換・修正した。 旧:行者山城→新:馬背山城 旧:馬背山城→新:馬背山堡塁
馬背山堡塁馬背山城(行者山)も遺構の曲輪段や小曲輪が、佐野から旧大手と思える林道が通じる南方の谷に向かって点在している様子。城攻めでなければ佐野から尾根通しの西尾根も可能だが、推定ルートは佐野からの谷詰めに入山し、馬背山城の南山腹に寺が在ったものか?。山上の馬背山城堡塁付近の岩場・岩壁を修行場する大峰・葛城・丹波修験等の山岳宗教が既に存在していたかは不詳ですが…
西尾根筋から馬背山堡塁のあるピークと右手に高見城を遠望氷上郡(丹波市)遺跡分布図にも馬背山城付近は高見城の城砦遺構範囲対象外?だが、尾根筋を僅か5-60m程にある二つ目?の瘤(岩頭部)傍に馬背山堡塁がある。佐野城と呼ばれていた仁木頼章が居た高見城の頃の釘貫門(大手門)跡とも思える。
高見城から馬背山・正面奥に赤井氏発祥地の赤井野と白山…が両城名自体も殆ど知られていないので補足:高見城の出曲輪ではなく・固有の独立した城郭の位置付けから高見城支城として命名(仮称)します。行者山(馬背山)には役行者が祀られていたのを、山頂から北へ高度を落としながら萱刈坂(峠)へと延びる北尾根上の”行者堂”(祠内に役行者像が祀られている)に遷されたと云う。
馬背山城(主曲輪から東曲輪<南段曲輪側に土塁アリ>)行者山から高見城の旧名(佐野城)が示す旧大手筋の佐野集落へ向かう岩稜の西尾根の山容からも:古名の馬背山(馬瀬山)を呼称するが、三角点はなく点名表記もない山名空白地帯で城跡も城史不明の為・共に仮称で表記します。
馬背山城(西面の主曲輪切岸) 尾根西端の聳立岩壁上には馬背山城の出曲輪?か、細く両端が切れ落ち西尾根筋前面を防御する石積のある馬背山堡塁(仮称)改名>だが、馬背山には平安時代:延喜年中(901-923)に安楽寺(創建等の由緒不明の廃寺)が在ったと云い、南北朝時-室町期の寺院を城塞化した典型なのかも!!。詳細はホームページの山城レポートに名称等置換・修正した。 旧:行者山城→新:馬背山城 旧:馬背山城→新:馬背山堡塁
馬背山堡塁馬背山城(行者山)も遺構の曲輪段や小曲輪が、佐野から旧大手と思える林道が通じる南方の谷に向かって点在している様子。城攻めでなければ佐野から尾根通しの西尾根も可能だが、推定ルートは佐野からの谷詰めに入山し、馬背山城の南山腹に寺が在ったものか?。山上の馬背山城堡塁付近の岩場・岩壁を修行場する大峰・葛城・丹波修験等の山岳宗教が既に存在していたかは不詳ですが…
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