建勲神社 丹波市

柏原藩織田家陣屋前を発った「柏原藩織田まつり」の武者行列は先ず建勲神社の石鳥居と白壁土塀前の大手通りを進む。”柏原藩織田まつり”の武者行列こそ<詳細不詳>此の建勲神社の秋祭り例祭の色彩が濃い行事に思われます!!?。 
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柏原藩陣屋と先日のブログ大手会館との間のT字交差点を西へ向かう南側には法務総合庁舎・北側には地方裁判所・税務署・自治会館・観光協会等が建ち並ぶ「大手通り」の中央部に 「屋敷公民館」が建ち、其の奥に石燈籠と真新しい拝殿の内に小さな祠建勲神社が祀られている。織田信長を祭神とする日本三社は、秀吉により信長廟所と定められた京都市北区・信長後裔が藩主を勤めた山形・天童市と丹波柏原町の三ヶ所だけ。
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大手通り南側一帯の佇まいは・武家等の屋敷割が行なわれていた遺構の様だが、官公庁建物が多い北側も同様の”町割り?”で武家屋敷群が集中して並んでいたものか?。建勲神社の直ぐ背後の宅地・宗教団体の駐車場付近には前期柏原藩織田家(織田信包・信則・信勝三代)の館跡との古絵図がある。西背後の丘陵先端部は柏原八幡社の杜。明智光秀の”丹波攻め<黒井城攻略>”の陣城八幡山城となったところ。  
   柏原藩陣屋表御殿と北側の中御殿跡地
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■創建は元禄8年(1695)後期織田家初代織田信休(柏原藩として就任した元禄8年-退任:享保7年)が織田家先祖である 織田信長を祭神として柏原陣屋内に勧請したのが始まりとされます。明治2年(1869)朝廷より信長の勤皇敬神を追賞され「建織田社」の神号を賜り、 翌年:初めて神式で信長を祀る「建勲<たていさお>神社」に改められたが、社が無かったため陣屋内に 仮神座を設けて祭礼が行われ、明治13年(1880)現在地に遷座されて以後は全ての人々が参拝できるようになった。
■【信休による創建だが 転封された当初は亀屋忠助邸を仮御殿とし・元禄10年増築して高谷御殿と称し藩邸として使用していた。藩陣屋が完成したのは信休が柏原入封20年後の正徳3年(1713)のこと】


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