石生西河原城 丹波市
弘治元年(1555)細川晴元側の赤井時家等赤井氏・荻野氏一族/晴元に背く細川氏綱方の三好長慶・松永久秀に付いた芦田光遠(沼城主)・足立基則(山垣城主)の連合軍が香良に集結した香良合戦は細川氏内乱の代理戦争として知られるところです。
「水分れ」香良合戦は前年:天文23年(1554)叔父荻野秋清を殺害し黒井城主となった荻野直正も重傷を負い春日領内に逃げ戻った。敵/味方共に多数の戦死者を出し丹波の合戦で最も激烈を極めながら勝敗を決しない合戦だったといわれ、足立・芦田氏に加勢の手筈だった三好・松永氏の援軍は間に合わず敗走?したとされる。
水分れ展望台曲輪跡(作業小屋が在ったので土塁状は其の残痕か?)三好氏関連の足跡を追う山城仲間を案内してメインの香良城に向かう前に、先ず待合わせ場所JR石生駅から近い水分れ公園から石生西河原城に向かう。石生西河原城は石負荘<現在の石生>が承久の乱(1221)に幕府に没収されるまでは皇室領だった。後に返され室町時代初期まで皇室領だったらしいが赤井氏の先祖?…の
…芦田(赤井)源太兵衛直家が武運長久・子孫繁栄を願って自分の領地・石負荘塚本の田を寄進した寄進状があり、詳細不明ながら芦田氏一族の山城であったとも推測される(早計かも!!)…?。水分公園の高谷川は時期を逃したが谷を挟む桜のトンネルで名所の一。向山連山の登山ルートはもう直ぐヒカゲツツジ回廊となり、
土塁上より観る二重堀切多くの登山者を迎える。この日もJR石生駅下車の登山者グループを多く見かけたが、殆どは(全員!!)西出口に出ていたので、東出口からを案内したが駅構内・外にも案内板や標識類を見ない。JR・市役所・観光協会等には観光登山者誘致のため一考願いたい。日本一低い中央分水界としての水分れ公園・扇状に嶺を連ねる
二重堀切外に位置する大土塁曲輪向山連山は、日本一低い中央分水界としての水分れ公園・扇状に嶺を連ねる向山連山は、マイカー登山でも周回して起点に戻ってこれる理想的な縦走コース。展望が効き・なによりも春のヒカゲツツジの群生に、阪神間の登山者には人気の山。なをコース上には四ノ山砦(天ヶ嶽砦)(仮称)もある。公園内には水分れ資料館・隣には石生(石負)語源?の延喜式内社:いそべ神社も…。

「水分れ」香良合戦は前年:天文23年(1554)叔父荻野秋清を殺害し黒井城主となった荻野直正も重傷を負い春日領内に逃げ戻った。敵/味方共に多数の戦死者を出し丹波の合戦で最も激烈を極めながら勝敗を決しない合戦だったといわれ、足立・芦田氏に加勢の手筈だった三好・松永氏の援軍は間に合わず敗走?したとされる。
水分れ展望台曲輪跡(作業小屋が在ったので土塁状は其の残痕か?)三好氏関連の足跡を追う山城仲間を案内してメインの香良城に向かう前に、先ず待合わせ場所JR石生駅から近い水分れ公園から石生西河原城に向かう。石生西河原城は石負荘<現在の石生>が承久の乱(1221)に幕府に没収されるまでは皇室領だった。後に返され室町時代初期まで皇室領だったらしいが赤井氏の先祖?…の
…芦田(赤井)源太兵衛直家が武運長久・子孫繁栄を願って自分の領地・石負荘塚本の田を寄進した寄進状があり、詳細不明ながら芦田氏一族の山城であったとも推測される(早計かも!!)…?。水分公園の高谷川は時期を逃したが谷を挟む桜のトンネルで名所の一。向山連山の登山ルートはもう直ぐヒカゲツツジ回廊となり、
土塁上より観る二重堀切多くの登山者を迎える。この日もJR石生駅下車の登山者グループを多く見かけたが、殆どは(全員!!)西出口に出ていたので、東出口からを案内したが駅構内・外にも案内板や標識類を見ない。JR・市役所・観光協会等には観光登山者誘致のため一考願いたい。日本一低い中央分水界としての水分れ公園・扇状に嶺を連ねる
二重堀切外に位置する大土塁曲輪向山連山は、日本一低い中央分水界としての水分れ公園・扇状に嶺を連ねる向山連山は、マイカー登山でも周回して起点に戻ってこれる理想的な縦走コース。展望が効き・なによりも春のヒカゲツツジの群生に、阪神間の登山者には人気の山。なをコース上には四ノ山砦(天ヶ嶽砦)(仮称)もある。公園内には水分れ資料館・隣には石生(石負)語源?の延喜式内社:いそべ神社も…。
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