野山城(再訪) 丹波市

氷上町側からR176号の城山トンネル(横田城・カンジュウジ城)を抜け春日町へ入る。横田城(は尾根続き北方の霧山城ともに”幻の氷上城”にも比定されていた。城山トンネルや北近畿自動車道が潜る横田トンネルが抜ける出る付近は向山連山の山塊に挟まれ東西僅かに5-700m幅程で黒井盆地と氷上盆地を分ける。
  野山城:東斜面の複数曲輪段切岸に何ヶ所か土止め石積を見る
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黒井城の南口唯一の玄関口は「丹波攻略」の明智軍にとって・守備する黒井城の荻野・赤井氏勢にとっても攻防の最重要地点。此の城山に在る横田城は陣場とも伝わる。播磨側から明智の援軍に加わった羽柴秀長らの陣城か?。横田城と霧山城への尾根続き中ほどには野山城がある。
  
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黒井城主となった荻野直正(幼名:才丸)が荻野18人衆の盟主に請われ天文年間(1532~55)朝日城に迎え入れられ城主となるが、丹波氷上へ侵攻した京都八木城主内藤宗勝を野山城で迎え撃った大将が荻野才丸で、此れを退けて初陣を飾ったのが後の荻野直正。今回の山城は10数年来お付合いの三好長慶ファンで、
 東郭部西端の円状露岩部は櫓台跡か?
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三好氏・内藤氏・松永氏等関連に造詣深い山城仲間を案内して香良合戦関連や三好氏関連の城を峠(天王坂)を挟んで案内した。野山城の東山麓を氷上町桟敷へ超える天王坂は、加古川沿いに丹波最後の宿場町:佐治へ抜ける但馬街道で、香良合戦に足立・芦田の連合軍と交戦し、負傷した荻野直正が黒井城へ撤退した…周辺の城砦を5ヶ所ほど…。
   西郭最高所の西端は掘切りで尾根続きを遮断
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天王坂は元禄「大石良雄の妻りく」が山科から但馬へ戻る時に佐治宿に寄り(町医者の世話になり御礼の盃が遺る!!)遠阪峠を但馬に越えていった伝承と共によく知られる。天王坂を春日町側に下り、再訪野山城への取付付近に又新舎・野山学校跡があり教覚寺が”村上専精”先生の生誕地。
  野山城最大の見所:露岩混じり鞍部を裂く大堀切
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顕彰碑の嘉永4年(1851)は建立年ではなく村上専精(本姓:広崎)氏の生誕年だった。昭和4年(1929)没したが明治・大正期に高等教育の充実に尽力された教育者・仏教史学者で、東洋高等女学校(現:東洋女子高等学校)の創設者で明治38年(1905)・1917年東京帝国大学印度哲学科の初代教授に就任。京都:大谷大学学長(1926-28)を務められた真宗大谷派の僧籍にあった人…を追記した。


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