御霊神社 福知山

JR福知山駅前からに福知山城方面を除く市内散策では大概:内記から:今は人通りも途絶えた様な寂しいアーケードを抜けて広小路に出る。此処は「音無瀬橋」南詰め堤防を下ったところ。2013年8月”福知山ドッコイセまつり”の花火大会場で露店の爆発事故があったのが「音無瀬橋」が架かる由良川の河川敷。さらに同年翌月には台風18号による由良川の氾濫による浸水被害の報道に驚かされます。
   御霊神社前の浸水位表示板
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過去の浸水被害の歴史や防災に対する意識は由良川堤防沿いに明治13年に建てられた市内最古の町家を改修した”由良川や水害の資料が展示された治水記念館施設が在り、繰り返される水害に対し注意喚起はされてきたのですが…翌:昨年(2014年)も浸水被害が起こってしまった。御霊神社鳥居近くに”昭和28年(1953)9月:台風13号による浸水位は標高29m69㎝”の表示板が立つ。
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石段上の本殿に迫る高さ!!?だが、由良川下流・大江町の波美村陣屋・波美城を訪ねた際にもR175号にxx年の水位(6~9m)を示す標柱が立てられていた。9mは舞鶴湾までの高低差にほぼ近い。
”福知山♪ドッコイセまつり”の主役は福知山音頭の市民総踊り大会で、各町や団体の連が繰り出すメイン会場となるのが”御霊神社-広小路通り”。
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”ドッコイセ…”は福知山城築城普請の際・工事の掛け声と云い、謳われる内容も ♪福知山出て 長田野越えて 駒を速めて亀山へ… (長田野:ブロバンス 亀山(亀岡城) )  ♪明智光秀丹波を拡め ひろめ丹波の福知山・・・  (福知山城・城下と寺町界隈)   ♪山家一万 綾部が二万 福知三万二千石… (山家城<谷氏> 綾部城<九鬼氏>)  ♪福知山さん葵の御紋 いかな大大名も 敵(かな)やせぬ… 次々と城主は代わる:葵は松平氏の時、最後の城主:朽木氏32000石が13代続き明治の廃藩置県で廃された。
福知山城の狭間から望む音無瀬橋・竹藪が明智藪
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元々:小笠原(塩見)頼勝が築いた横山城は、音無瀬橋の北方・猪崎城共に土豪塩見氏一族が支配していたが、天正7年(1579)明智光秀の攻撃を受け落城・信長から丹波を与えられた光秀が横山の地を福知山と命名して築城(改修)。合戦後の荒れた城下の町民達に対し地子銭(税)免除の特権を与え・河川の改修(護岸砂防の明智藪が遺る)等の善政をしき、民衆の高い支持を得ている。
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地元では御霊神社に祀られ・築城時の労働の様子等を謳った”福知山音頭”はよく知られ、市花の一つに明智家紋となっている「桔梗」も其れを顕わしている。御霊神社は祭神を宇賀御霊大神(穂食神)とし、宝永元年(1704)福知山城主朽木種昌の代:明智日向守光秀の霊を配神として合祀されています。境内に「本能寺 溝幾尺…」と題する頼山陽の漢詩が立つ。天正10年(1582)明智越えの路は秀吉の中国攻め援軍としてではなく・京都本能寺へ向かった。光秀の本当の敵は信長ではなく秀吉であったが、是に対する備えは出来ていたのか!!?…と問い・作者の批評を加えた詩と云う。


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