大石りく顕彰碑 豊岡市

「忠臣蔵」で知られる赤穂義士(四十七士)の中心人物大石内蔵助良雄の妻:理玖の遺髪塚が、豊岡市郊外の六方川沿いの日撫地区の山裾・香林院(正福寺)にある。玄武洞へは県道548号で円山川に架かる堀川橋東詰め「六地蔵」を左折し六方排水機場の側を北に進むが、直進し約100mで右折・六方川沿い南へ200m程に正副寺の参拝駐車場があり、傍に二人の子を連れた旅装の”りく銅像”と”大石りく顕彰碑”が立ち、丘陵上の香林院に”りく遺髪塚”が祀られ豊岡市指定史跡となっている。
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元禄15年4月:夫と離別した”理玖”が山科を発ち、寺坂吉衛門を伴に三人?の子供【二男の吉千代11歳と長女:くう12歳・次女ルリ3歳(三男:大三郎を懐妊中…?)を連れ、但馬豊岡の実家に戻る話は丹波市:但馬街道の天王坂”りくの森”がある。”りく銅像”の二人の子は・広島で死去した「りく」の3回忌に建立された遺髪塚を挟んで左右に祀られる長女くう・次男の吉千代の姿なのでしょう?が二人とも早世した。          
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大石内蔵助良雄の妻:理玖(りく)は豊岡藩主京極家の筆頭家老石束源五兵衛(毎公:つねとも)の長女として豊岡に生まれた。18歳で赤穂藩家老:大石良雄に嫁いだが、元禄14年3月藩主:浅野内匠頭長矩による殿中での刃傷事件に浅野家は断絶。赤穂城の開城により家臣等は…後は赤穂四十七士が吉良邸に討入り、本懐を遂げるまでは”忠臣蔵…赤穂浪士…”で御存知…。
大石内蔵助良雄以下:赤穂浪士の吉良邸討入り・翌年義士一同の切腹には、残された浪士家族の面倒を看ながら、ひたすら困苦に耐えて遺児を養育し良妻賢母の鑑として称えられています。
  丹波市:天王坂の「りくの森」清水の井戸
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石束源五兵衛毎公(つねとも)が家老職を退いて、豊岡藩陣屋跡近く・京町に在った石束家屋敷「大石陸女生誕之地」の碑(理玖は此処で大三郎を出産)から日撫の隠居所:正福寺?に移ると、理玖も子供達と広島に移るまでまでの4年間を一緒に住み、香林院を名乗って?…夫と長男:良金<通称:主税>の冥福を祈る生活を続けたとされていますが、長女「くう」が其の間に他界します。
   豊岡市京町石束家近くの生誕地顕彰碑
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正徳3年(1713)三男:大三郎(12歳)が安芸国広島藩赤穂浅野家の本家に仕官し、父内蔵助良雄と同じ破格の1500石を賜り、理玖ともに広島に移り、落飾(剃頭して仏門に入る)すると香林院と称し広島藩から隠居料として100石を支給されていたが、元文元年(1736)68歳で死去・広島の国泰寺に三男:大三郎(外衛)と理玖母子が祀られている。次女ルリも広島藩士で浅野一族の浅野直道に嫁いでいる。
<日撫・香林院の顕彰碑 等を参照>


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