兵主神社 Ⅱ 西脇市
「中央橋東」交差点でJR加古川線と並走する県道294号を南下する直線道は正面に極小釣鐘状の高さ40m程の独立丘陵が城山(じょやま)城。訪れる人も殆どいない・遺構は下草藪に覆われ目視確認も難儀。(城趾だが道路拡幅工事で大きく壊滅)。
「抜け穴」伝承はあるが築城時期・目的・城主等城史は一切不明。此の断崖状の北面が山上まで大きく削られ段差を設け梯子が延びるが工事内容を示す表示はないが北面を主に城跡発掘調査中のよう…?。登路は南西からの踏み跡があるだけ、
城山城北面(伐採:崩され障壁の面影はない)この城山城の南には兵主神社(黒田庄町岡)が鎮まる。今日は兵主神社秋祭り午前中の行列は終わっていたが布団太鼓が揃っている様なのでチョッと覗いてみる、豪華絢爛・勇壮な姿を来月三木市「祭り屋台大集合」も見物の予定。
城山城南面(兵主神社側から)午前中にで見逃がしていた兵主神社大祭の行列『市や北播磨関連Web等では:いずれも一律に大名行列を模した”レッケイ”…と説明されているだけだが?』を見学のため城山城北裾のスペースに車を寄せて向かう。兵主神の御神体は矛だとされ祭器の刀剣や斧等から武器製造の鍛冶の神だとも。
神輿に祭神が遷されるのを待つ従者!!JR鍛冶屋線(廃線)市原近くにも鍛冶の神を祀る天目一神社も祭神の天目一箇尊命が鍛冶の神。武器・武具に秀でた神なら黒田官兵衛が羽柴秀吉の代参として兵庫(つわものぐら)の鎮守として戦勝祈願に兵主神社を訪れたのも、播磨平定・三木合戦の戦勝祈願なら地元:黒田庄町出身の官兵衛なら適任だったかも!!。
羽柴秀吉からの祈願成就の奉納金により現在の拝殿が改築されたとされた茅葺入母屋造の拝殿。社紋も豊臣氏の五・七の桐が許されたと…。五穀豊穣を願う秋の例祭行事には、本殿神事により遷られた祭神を載せた神輿のレッケイ行列?。TV大河ドラマ軍師官兵衛では官兵衛戦勝祈願甲冑武者行列も行なわれたという?。
各藩の勢力を分断・財政逼迫に拍車をかけて散財させる大名行列(参勤交代)に甲冑武士の壮列とは!?、不穏な反幕行為!?として藩はお取り潰し…。”レッケイ”行列の起源を検証していないが大名行列なら江戸幕府の時代!?。
某地区ふとん太鼓の欄間飾りは忠臣蔵(山鹿流陣太鼓を打つ大石の討入り図)主祭神の大己貴命(おおなむち)=大国主命(おおくにぬし)を輿に載せ御幸行列の先導は御幣を振って参道を清める天狗面の猿田彦(神導きの神)が露払い・謡いの文句は不詳ながら、謡いにあわせて:挟み箱・毛槍や長刀・弓矢を持つ従者達が携える武具も神具・神器の一つにしか見えてこない?。
所作からレッケイは神を敬う(敬意)を表しての”列敬”/五穀豊穣の恵に感謝して付添う”列恵”を意味するものか?。大名行列に拘り疑問はあるが江戸時代:丹羽氏が美作・河内の領地を播磨国に移し加西郡(加西市)・加東郡(加東市)・多可郡(西脇市・多可郡)・美嚢郡(三木・吉川)に1万石を領し三草藩(加東市)を成立させた。
遠く離れた三草藩?の大名行列よりは時代行列?。猿田彦の先導で行なわれる神の宮入”レッケイ”だが鉄器・武器製造の鍛冶神からも武者行列でも…?。兵主神社に係る祭神の大国主・素盞嗚尊等天孫降臨の神代、播磨の国衛に赴任し延喜年代に兵主神社を創建した岡本修理大夫、城史や遺構は定かでないが岡本氏の城や
城館とも推察できそうな桂松山城(岡ノ城)や極楽寺構居に絡む武者行列や黒田官兵衛の戦勝祈願代参…等々の時代行列が良さそうです。
極楽寺から一の鳥居までの短いコースでも現状の御幸ペースだと半日は掛かるかも…!!?。5地区から成る5台の布団太鼓の宮入まで見学したかったが、私事:地元でも地区内各戸を獅子舞が廻って来る時間も近づき自宅へ戻ることに…
「抜け穴」伝承はあるが築城時期・目的・城主等城史は一切不明。此の断崖状の北面が山上まで大きく削られ段差を設け梯子が延びるが工事内容を示す表示はないが北面を主に城跡発掘調査中のよう…?。登路は南西からの踏み跡があるだけ、
城山城北面(伐採:崩され障壁の面影はない)この城山城の南には兵主神社(黒田庄町岡)が鎮まる。今日は兵主神社秋祭り午前中の行列は終わっていたが布団太鼓が揃っている様なのでチョッと覗いてみる、豪華絢爛・勇壮な姿を来月三木市「祭り屋台大集合」も見物の予定。
城山城南面(兵主神社側から)午前中にで見逃がしていた兵主神社大祭の行列『市や北播磨関連Web等では:いずれも一律に大名行列を模した”レッケイ”…と説明されているだけだが?』を見学のため城山城北裾のスペースに車を寄せて向かう。兵主神の御神体は矛だとされ祭器の刀剣や斧等から武器製造の鍛冶の神だとも。
神輿に祭神が遷されるのを待つ従者!!JR鍛冶屋線(廃線)市原近くにも鍛冶の神を祀る天目一神社も祭神の天目一箇尊命が鍛冶の神。武器・武具に秀でた神なら黒田官兵衛が羽柴秀吉の代参として兵庫(つわものぐら)の鎮守として戦勝祈願に兵主神社を訪れたのも、播磨平定・三木合戦の戦勝祈願なら地元:黒田庄町出身の官兵衛なら適任だったかも!!。
羽柴秀吉からの祈願成就の奉納金により現在の拝殿が改築されたとされた茅葺入母屋造の拝殿。社紋も豊臣氏の五・七の桐が許されたと…。五穀豊穣を願う秋の例祭行事には、本殿神事により遷られた祭神を載せた神輿のレッケイ行列?。TV大河ドラマ軍師官兵衛では官兵衛戦勝祈願甲冑武者行列も行なわれたという?。
各藩の勢力を分断・財政逼迫に拍車をかけて散財させる大名行列(参勤交代)に甲冑武士の壮列とは!?、不穏な反幕行為!?として藩はお取り潰し…。”レッケイ”行列の起源を検証していないが大名行列なら江戸幕府の時代!?。
某地区ふとん太鼓の欄間飾りは忠臣蔵(山鹿流陣太鼓を打つ大石の討入り図)主祭神の大己貴命(おおなむち)=大国主命(おおくにぬし)を輿に載せ御幸行列の先導は御幣を振って参道を清める天狗面の猿田彦(神導きの神)が露払い・謡いの文句は不詳ながら、謡いにあわせて:挟み箱・毛槍や長刀・弓矢を持つ従者達が携える武具も神具・神器の一つにしか見えてこない?。
所作からレッケイは神を敬う(敬意)を表しての”列敬”/五穀豊穣の恵に感謝して付添う”列恵”を意味するものか?。大名行列に拘り疑問はあるが江戸時代:丹羽氏が美作・河内の領地を播磨国に移し加西郡(加西市)・加東郡(加東市)・多可郡(西脇市・多可郡)・美嚢郡(三木・吉川)に1万石を領し三草藩(加東市)を成立させた。
遠く離れた三草藩?の大名行列よりは時代行列?。猿田彦の先導で行なわれる神の宮入”レッケイ”だが鉄器・武器製造の鍛冶神からも武者行列でも…?。兵主神社に係る祭神の大国主・素盞嗚尊等天孫降臨の神代、播磨の国衛に赴任し延喜年代に兵主神社を創建した岡本修理大夫、城史や遺構は定かでないが岡本氏の城や
城館とも推察できそうな桂松山城(岡ノ城)や極楽寺構居に絡む武者行列や黒田官兵衛の戦勝祈願代参…等々の時代行列が良さそうです。
極楽寺から一の鳥居までの短いコースでも現状の御幸ペースだと半日は掛かるかも…!!?。5地区から成る5台の布団太鼓の宮入まで見学したかったが、私事:地元でも地区内各戸を獅子舞が廻って来る時間も近づき自宅へ戻ることに…
この記事へのコメント