奥野将監屋敷跡 加西市
「鴨谷」交差点から県道369号を万願寺川沿いに走り広原交差点で県道145号に左折し北へ直進・上芥田町から東へ・遠阪峠を越えると多可町八千代区の県道34号線楊楊寺近くに出る。県道少し先には道の駅”なごみの里山都”の北隣から西山懐へ入っていく車道が大石良雄の石垣が西谷(さいだに)公園の入口付近に築かれている。
大石良雄も工事視察のため再三訪れていることから”大石の石垣”と呼ばれています。此処より谷詰めの尾根を越えた加西市側麓に在るのが久学寺「赤穂藩浅野家三がく寺(花岳寺・泉岳寺・久学寺)」:更に北へ金剛院・上万願寺町方面への分岐を直進する車道終点に久学寺がある。久学寺背後の丘陵部を越えると八千代区の大石の石垣に至るが馬で越せる旧道が通じていたかは知らないが…。
上記に金剛院・上万願寺に至るルートを示したが、此処から南へ約650m程の距離に原始人会交流館があり、先のブログ紹介の”農家レストラン 土一七日屋台”があり、此処に至る万願寺川沿い:県道145号線(神埼郡市川町に越える)側には磯崎八幡神社があり、神社の奥に奥野将監屋敷(下道山町)があり此の地は赤穂藩の飛地領。
忠臣蔵で知られる赤穂藩家老:大石内蔵助良雄1500石に次ぐ1000石の家老(組頭)奥野将監定良は赤穂城開け渡し・浅野家改易の時、逐電した家老大野九郎兵衛知房の代理を勤めて大石良雄を補佐し開け渡し作業に尽力し、お家再興が絶望的になると大石良雄の義盟にも1000石以上?の重臣としてはただ一人最初から参画し補佐している。「忠臣蔵」で有名な赤穂47義士の列にも加わらず
脱盟し一党から除列し”不忠”の悪評を受けているが、赤穂浪士47士の一人:大石信清(瀬左衛門)とは従兄の関係にあり、討入りに加わった瀬田高教・木村貞行も奥野将監に属した藩士です。内蔵助と血判状を交わして誓った赤穂藩士が120人もいたとされ、第一陣として本懐を遂げた大石の47義士の他にも、奥野以下70余名が脱盟しているが”万一不成功の場合”は第二陣として仇を報ずる予備の抑えとする大石・奥野両家老の深謀術策だったともされる。
大石良雄が敵討ちの真意を欺く為・映画芝居で良く知られる京都での遊興放蕩だったが、其れを知らず嫌気がさして脱盟したとされる将監もまた:敵を欺く為の策謀だったのでしょう。報われず「醜夫」の汚名返上を果たせなかった悲運の赤穂義士は:より以上に辛く過酷な運命を背負った烈士だったと信じます。将監定次は磯崎神社の神宮寺に嫁いだ娘婿の快知院秀慶(経?)を頼って此処に居を構え、曲輪内に残る一基の墓碑は将監の娘の子のものと云われる。晩年の将監は多可町中区に隠棲し新田開発にも従事し享保12年(1727)没したと云われ糀屋の稲荷公園・稲荷神社裏の墓地に祀られている。なを47義士の一:吉田忠左衛門が代官として在番していた穂積陣屋は加東市滝野町に在る。

大石良雄も工事視察のため再三訪れていることから”大石の石垣”と呼ばれています。此処より谷詰めの尾根を越えた加西市側麓に在るのが久学寺「赤穂藩浅野家三がく寺(花岳寺・泉岳寺・久学寺)」:更に北へ金剛院・上万願寺町方面への分岐を直進する車道終点に久学寺がある。久学寺背後の丘陵部を越えると八千代区の大石の石垣に至るが馬で越せる旧道が通じていたかは知らないが…。
上記に金剛院・上万願寺に至るルートを示したが、此処から南へ約650m程の距離に原始人会交流館があり、先のブログ紹介の”農家レストラン 土一七日屋台”があり、此処に至る万願寺川沿い:県道145号線(神埼郡市川町に越える)側には磯崎八幡神社があり、神社の奥に奥野将監屋敷(下道山町)があり此の地は赤穂藩の飛地領。
忠臣蔵で知られる赤穂藩家老:大石内蔵助良雄1500石に次ぐ1000石の家老(組頭)奥野将監定良は赤穂城開け渡し・浅野家改易の時、逐電した家老大野九郎兵衛知房の代理を勤めて大石良雄を補佐し開け渡し作業に尽力し、お家再興が絶望的になると大石良雄の義盟にも1000石以上?の重臣としてはただ一人最初から参画し補佐している。「忠臣蔵」で有名な赤穂47義士の列にも加わらず
脱盟し一党から除列し”不忠”の悪評を受けているが、赤穂浪士47士の一人:大石信清(瀬左衛門)とは従兄の関係にあり、討入りに加わった瀬田高教・木村貞行も奥野将監に属した藩士です。内蔵助と血判状を交わして誓った赤穂藩士が120人もいたとされ、第一陣として本懐を遂げた大石の47義士の他にも、奥野以下70余名が脱盟しているが”万一不成功の場合”は第二陣として仇を報ずる予備の抑えとする大石・奥野両家老の深謀術策だったともされる。
大石良雄が敵討ちの真意を欺く為・映画芝居で良く知られる京都での遊興放蕩だったが、其れを知らず嫌気がさして脱盟したとされる将監もまた:敵を欺く為の策謀だったのでしょう。報われず「醜夫」の汚名返上を果たせなかった悲運の赤穂義士は:より以上に辛く過酷な運命を背負った烈士だったと信じます。将監定次は磯崎神社の神宮寺に嫁いだ娘婿の快知院秀慶(経?)を頼って此処に居を構え、曲輪内に残る一基の墓碑は将監の娘の子のものと云われる。晩年の将監は多可町中区に隠棲し新田開発にも従事し享保12年(1727)没したと云われ糀屋の稲荷公園・稲荷神社裏の墓地に祀られている。なを47義士の一:吉田忠左衛門が代官として在番していた穂積陣屋は加東市滝野町に在る。
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