武家屋敷 安間家資料館 篠山市

慶長14年(1609)天下普請により篠山城が築かれる際:城を囲む外濠周囲には八上城下から篠山城下へ寺・商家・武士団を移し区分け・城下を整備(町割り)された。其の名残を留め伝統的建造物群保存地区となっているのが篠山城東に河原町妻入商家群と、篠山城西のお徒士町武家屋敷群で江戸末期の建築様を今に残し篠山市の文化財(平成6年3月23日付)に指定されている。
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城の外濠周囲に武家町が配されていたが廃藩・明治維新以後の激動に、城内三の丸広場や西堀・南堀沿い大土塁内側の家老・重臣等の武家屋敷群は其の痕跡さえ消滅して(篠山城大書院内の放映ビデオ等で確認してみてください)更地となり・南堀の南側筋や西堀と一つ西の筋に武家屋敷跡が残る。
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篠山藩政から明治の歴史散歩コース其のⅠが安間家資料館(篠山市西新町)・其のⅡ青山歴史村は篠山城大手馬出し(土塁残欠が遺る)からの北堀沿いを西へ進むが、西堀沿いを南への筋にも南堀・西角付近に小林家住宅長屋門がある。篠山藩主:青山忠裕(ただやす)が老女:小林千衛の為に改築した長屋門と云われる。
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南堀沿いの南馬出しの土塁虎口の存在は日本唯一の遺構とされる。南馬出の南を囲む外堀西南角の空地(駐車場になっているかも?)は篠山藩10代青山忠高が設立したた藩校振徳堂跡、篠山藩13代忠良の子:青山忠誠(ただしげ)による篠山中年学舎(篠山鳳鳴高校の前身)は春日神社本殿北側の社務所前に開学の地碑ともにある。
     主の座敷は庭園に面した客間/居間は曲屋で続く奥(西)の間か?
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西堀・南堀の角(小林家長屋門と藩校の振徳堂との間)から幅狭い車道を西へ約80m程抜け出たところが西新町の「お徒士町通り」。外堀の外にあって藩主警護の徒士衆(下級武士・足軽等)の武家屋敷群が左右に10数軒遺り、今も一般住宅として使用されており武家屋敷として唯一公開されているのが安間家資料館
      曲屋の母屋と蔵が並ぶ内庭・奥に畑地だった?築山と竹藪が…
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御徒士町通りの一角にあって天保年間(1830-44)の建築だが、天保元年(1830)の大火災により一帯・大部分が焼失したが、程なく復興した際、安間家とう通路の西側屋敷を約6尺(一間 1.82m)後退させ、火除け地をつくって火災に備えたと云い、今でも道路と土塀の間には犬走状の空地をもっている。現存する徒士住宅の大部分は其の後に建てられたもので、安間家も天保8年頃の再建か?。禄高12石3人扶持(足軽より上か?)の茅葺・入母屋造りの徒士住宅。
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間口6間半・奥行7間半の丹波・北摂地方に見られる曲屋の安間家母屋は平成6年(1994)3月23日市指定・翌年より一般公開された文化財)の屋敷門を潜った左手土塀側の井戸が風情を添えているが、元は畑(内庭の築山から西に続く竹藪含め)にあったもの。安間家住宅と安間家に残された古文書や食器類・家具を始め、その後寄贈を受けた篠山藩ゆかりの武具や資料を中心に資料館として改修・公開展示され徒士武士の質素ながら武家の誇りをもった暮らしぶりが垣間見られる。
     曲屋の母屋内角の縁側の側に水琴窟(資料館後の築造らしいが風情あり)
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青山先祖は群馬県中之条町青山の出身と云い、松平氏に仕え常陸-武蔵-遠江国浜松-丹波亀山へと転封、寛延元年(1748)青山忠朝が亀山藩から第9代篠山藩主(青山家初代)として多紀郡篠山に5万石で移封され、青山家6代忠敏(ただゆき)の代に維新を迎え廃藩するが安間姓は東海~関東にかけて多く関西圏では極少ない姓なので?、国替えの都度青山氏に付き従ってきた家臣なのでしょう?。安間家はじめ徒士町の武家は廃藩後も篠山に留まり家を守り手入れを怠らなかったことで、現状の武家屋敷群の面影を今に伝えます。
   (お徒士町通り武家屋敷群・安間家資料館等市の現地説明板参照)


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