篠山城二の丸:大書院
篠山市内:四つの文化施設(資料館)を巡る歴史散歩はⅠ青山歴史村を皮切にⅡ武家屋敷 安間家資料館へと青山氏の篠山藩政時代を訪ね・其のⅢは篠山藩が八上城から移った篠山城へ…多紀郡領主:波多野氏の八上城落城後は亀山城支城となり、
篠山城大手門から廊下門・中門を抜け鉄門を入る秀吉時代には並河氏、慶長7年(1602)からは前田玄以の子:重勝が亀山城から入部するが、改易となった同13年(1608)松井松平家の康親の嫡男:康重【徳川家康の子との説も…】が常陸笠間3万石から篠山藩5万石に加増されて移封。
大書院縮尺模型と装飾瓦・紋瓦等…篠山城を新築にあたっては、負け嫌い稲荷のある王地山・篠山藩青山氏の菩提寺蟠龍庵背後の飛の山城・笹山砦(現:篠山城)が候補地に上がっていたが、笹山に決定され慶長14年(1609)徳川家康命により篠山城が完成し、八上城から松平康重が初代藩主として移った。
西国諸大名を総動員して築かれた篠山城の大量の築城石の石材採集場となる河原石や露岩の最適な石切場が小坂城跡(篠山市小坂)にも観るが来栖野の中谷川河原等…近距離にあった事、廃城となった八上城からも大量の石材が転用石として運ばれ、短期間に築城が完成した筈。
大書院正面は北の大手向き…八上城下の誓願寺(波多野氏菩提寺となっている)等寺々や商家を篠山城下に移し町割りされ、城内二ノ丸の大書院も築城と同時期に建てられたものと云う。昭和19年(1944)焼失したが市民の寄付により平成12年(2000)復元再建された篠山城大書院篠山市北新町 篠山城跡二ノ丸内>は現存する同様の建築では二条城二の丸御殿に次ぐが、一大名の書院としては破格の規模と古式の建築様式を備えたものといえます。
大書院内から本の丸(天守櫓台は正面奥) 東西には:山陽・播磨方面から京都へ通じる山陽道・京街道が、南北には摂津(阪神)から但馬・丹後・若狭に通じる山陰道・但馬街道が交差する要衝の地にあり、城の南を東から西・更に西から北へ巻き込む様に流れる篠山川。城の東を北から南へ黒岡川が流れ篠山川へ流れ出て自然の二重外濠となる。城の西もまた北から南へ熊谷川が東岡屋で篠山川に合流して篠山城の四方を取り囲む自然の要害となっている…が築城主目的の大阪城攻略上の包囲網の一大拠点だが、出撃の大手虎口は北にある。
未だ残る豊臣恩顧の西日本の諸大名を抑える拠点として睨みを効かし、主に但馬側からの侵攻に備えるものとは表向き理由か?。徳川氏に下りたとは西日本の大名に賦役を命じ財力をつかわせて弱体化を図かり、突貫工事とはいえ僅か1年余りで完成をみる。天守櫓を築いたのも表向き?だったか天守閣は築かれていない。
廃藩置県後の廃城令によって日本各地の城の多くが破却されるなか大書院は難を逃れたものの、昭和19年(1944)1月6日夜に惜しくも焼失。市民らの寄付により平成12年(2000)4月嘗ての姿が復元。
南馬出側から大土塁間を入ると正面に二の丸石垣(中央に埋門)復元するにあたっては古絵図・古写真・発掘踏査等の総合的な学術調査が実施され、その成果に基づいて設計・復元された建物は平屋建て北(妻側)が建物正面。床面積は739.33㎡・棟高 12.88m ・屋根は入母屋造り杮葺きとなっている。

篠山城大手門から廊下門・中門を抜け鉄門を入る秀吉時代には並河氏、慶長7年(1602)からは前田玄以の子:重勝が亀山城から入部するが、改易となった同13年(1608)松井松平家の康親の嫡男:康重【徳川家康の子との説も…】が常陸笠間3万石から篠山藩5万石に加増されて移封。
大書院縮尺模型と装飾瓦・紋瓦等…篠山城を新築にあたっては、負け嫌い稲荷のある王地山・篠山藩青山氏の菩提寺蟠龍庵背後の飛の山城・笹山砦(現:篠山城)が候補地に上がっていたが、笹山に決定され慶長14年(1609)徳川家康命により篠山城が完成し、八上城から松平康重が初代藩主として移った。
西国諸大名を総動員して築かれた篠山城の大量の築城石の石材採集場となる河原石や露岩の最適な石切場が小坂城跡(篠山市小坂)にも観るが来栖野の中谷川河原等…近距離にあった事、廃城となった八上城からも大量の石材が転用石として運ばれ、短期間に築城が完成した筈。
大書院正面は北の大手向き…八上城下の誓願寺(波多野氏菩提寺となっている)等寺々や商家を篠山城下に移し町割りされ、城内二ノ丸の大書院も築城と同時期に建てられたものと云う。昭和19年(1944)焼失したが市民の寄付により平成12年(2000)復元再建された篠山城大書院篠山市北新町 篠山城跡二ノ丸内>は現存する同様の建築では二条城二の丸御殿に次ぐが、一大名の書院としては破格の規模と古式の建築様式を備えたものといえます。
大書院内から本の丸(天守櫓台は正面奥) 東西には:山陽・播磨方面から京都へ通じる山陽道・京街道が、南北には摂津(阪神)から但馬・丹後・若狭に通じる山陰道・但馬街道が交差する要衝の地にあり、城の南を東から西・更に西から北へ巻き込む様に流れる篠山川。城の東を北から南へ黒岡川が流れ篠山川へ流れ出て自然の二重外濠となる。城の西もまた北から南へ熊谷川が東岡屋で篠山川に合流して篠山城の四方を取り囲む自然の要害となっている…が築城主目的の大阪城攻略上の包囲網の一大拠点だが、出撃の大手虎口は北にある。
未だ残る豊臣恩顧の西日本の諸大名を抑える拠点として睨みを効かし、主に但馬側からの侵攻に備えるものとは表向き理由か?。徳川氏に下りたとは西日本の大名に賦役を命じ財力をつかわせて弱体化を図かり、突貫工事とはいえ僅か1年余りで完成をみる。天守櫓を築いたのも表向き?だったか天守閣は築かれていない。
廃藩置県後の廃城令によって日本各地の城の多くが破却されるなか大書院は難を逃れたものの、昭和19年(1944)1月6日夜に惜しくも焼失。市民らの寄付により平成12年(2000)4月嘗ての姿が復元。
南馬出側から大土塁間を入ると正面に二の丸石垣(中央に埋門)復元するにあたっては古絵図・古写真・発掘踏査等の総合的な学術調査が実施され、その成果に基づいて設計・復元された建物は平屋建て北(妻側)が建物正面。床面積は739.33㎡・棟高 12.88m ・屋根は入母屋造り杮葺きとなっている。
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