東白毫寺城 丹波市
丹波市生誕10周年にして、やっと丹波市史が発刊され・内容に随分期待していたのだが!!。寺社や歴史・民俗文化財等については殆ど触れられず、別途・別巻として集約されるものと思っていたのだが…!?。 丹波市市島町の白毫寺に向かう入口?付近の酒梨に留堀(とんぼり)城がある。黒井城主:荻野秋清の下屋敷だったとされるところ。この秋清を刺殺し黒井城主となったのが荻野直正。
丹波の赤鬼と恐れられた荻野直正は赤井氏一族の本拠後谷城主赤井時家の二男才丸で荻野18人衆の盟主に乞われ朝日城城主となっていた。黒井城主となった以後も赤井姓に戻してはいない筈!だが三郡(氷上・天田・何鹿)を領して但馬竹田城をも落とした豪勇は江戸期の絵本太平記の挿入絵に記され赤井悪衛門…等で有名になり過ぎ?、今回の丹波市史にも一貫して赤井一族の拠点:黒井城…としてのみ記されている。同族の荻野・赤井一族としての説明ならまだ納得ですが…
東白毫寺城:北端帯曲輪と低土塁
R175号の東勅使交差点手前のバイパスに入り旧道と交差する県道283号に合流した所に留堀城が在る。今年8月に二度ばかり行ったイタリアンレストランテッラドーノの保育所跡地もこの城内。県道283号を西へ走れば白毫寺に至る。近くの民家の九尺藤が人気で白毫寺(<慶運2年(705)>法道仙人開基を伝える丹波古刹)も賑わう!!。また創建年代に疑問もあるが境内には南北朝期足利尊氏より所領の丹波春日部荘を与えられた赤松貞範(赤松円心の二男)の宝篋印塔が建つ。
4等三角点の埋まる主曲輪と西端部の低土塁白毫寺は修行の山でもあって、築城主や其の城史については不明ながら、隆盛を極めていた白毫寺の寺域・寺領を護る僧兵が拠っていたものか?。黒井城の北方・搦め手を護る城砦群の一つだったか?。丹波市内では珍しい白毫寺城があり、顕著な二つの異なる縄張り形態の一城別郭がある。ただ標高の低い方の城は同心円状に曲輪を乗せる輪郭と放射状に畝状竪堀を並べる縄張りに、明智軍の黒井城に対する向城と考えられます。
城域南端の露岩部西面は急斜面だが南へは緩斜面が延びる旧氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書(春日町)に城遺構として載せてあるが、城域の東:白毫寺公会堂側から南北に通じる車道の東・遺跡空白地帯の比高僅か40m程の独立低丘陵上に4等三角点が埋まる151m山頂に主曲輪を置く東白毫寺城跡が遺る。黒井城包囲の向城として敵方への抑止効果はあったものか?。
帯曲輪(左)と低段差の主曲輪(北から南虎口?側を望む)山頂部の緩斜面上に現状では1mに満たないが低い段差で帯曲輪と主曲輪が並ぶ二列構成!!?の縄張りで、其々北末端部に・これまた幅1m未満?・高さも数10㎝程の土塁状盛り上がりが在る程度。露岩部の南端は南下部へ急斜面だが東へは緩斜面が山麓まで延びており、此の砦へ登城ルートとも思えないが、そのまま帯曲輪へと入っていく?。黒井本城や千丈寺砦への監視も兼ね、白毫寺城からは見えない明智光秀の陣城:小富士城との通信・狼煙場的存在の砦だったか?。
丹波の赤鬼と恐れられた荻野直正は赤井氏一族の本拠後谷城主赤井時家の二男才丸で荻野18人衆の盟主に乞われ朝日城城主となっていた。黒井城主となった以後も赤井姓に戻してはいない筈!だが三郡(氷上・天田・何鹿)を領して但馬竹田城をも落とした豪勇は江戸期の絵本太平記の挿入絵に記され赤井悪衛門…等で有名になり過ぎ?、今回の丹波市史にも一貫して赤井一族の拠点:黒井城…としてのみ記されている。同族の荻野・赤井一族としての説明ならまだ納得ですが…
東白毫寺城:北端帯曲輪と低土塁
R175号の東勅使交差点手前のバイパスに入り旧道と交差する県道283号に合流した所に留堀城が在る。今年8月に二度ばかり行ったイタリアンレストランテッラドーノの保育所跡地もこの城内。県道283号を西へ走れば白毫寺に至る。近くの民家の九尺藤が人気で白毫寺(<慶運2年(705)>法道仙人開基を伝える丹波古刹)も賑わう!!。また創建年代に疑問もあるが境内には南北朝期足利尊氏より所領の丹波春日部荘を与えられた赤松貞範(赤松円心の二男)の宝篋印塔が建つ。
4等三角点の埋まる主曲輪と西端部の低土塁白毫寺は修行の山でもあって、築城主や其の城史については不明ながら、隆盛を極めていた白毫寺の寺域・寺領を護る僧兵が拠っていたものか?。黒井城の北方・搦め手を護る城砦群の一つだったか?。丹波市内では珍しい白毫寺城があり、顕著な二つの異なる縄張り形態の一城別郭がある。ただ標高の低い方の城は同心円状に曲輪を乗せる輪郭と放射状に畝状竪堀を並べる縄張りに、明智軍の黒井城に対する向城と考えられます。
城域南端の露岩部西面は急斜面だが南へは緩斜面が延びる旧氷上郡埋蔵文化財分布調査報告書(春日町)に城遺構として載せてあるが、城域の東:白毫寺公会堂側から南北に通じる車道の東・遺跡空白地帯の比高僅か40m程の独立低丘陵上に4等三角点が埋まる151m山頂に主曲輪を置く東白毫寺城跡が遺る。黒井城包囲の向城として敵方への抑止効果はあったものか?。
帯曲輪(左)と低段差の主曲輪(北から南虎口?側を望む)山頂部の緩斜面上に現状では1mに満たないが低い段差で帯曲輪と主曲輪が並ぶ二列構成!!?の縄張りで、其々北末端部に・これまた幅1m未満?・高さも数10㎝程の土塁状盛り上がりが在る程度。露岩部の南端は南下部へ急斜面だが東へは緩斜面が山麓まで延びており、此の砦へ登城ルートとも思えないが、そのまま帯曲輪へと入っていく?。黒井本城や千丈寺砦への監視も兼ね、白毫寺城からは見えない明智光秀の陣城:小富士城との通信・狼煙場的存在の砦だったか?。
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