西谷城 篠山市
R176号「大山下」から県道77号に入り舞鶴自動車道下を潜り抜け、篠山市街地へ向かう宮田交差点で県道97号(丹南三和線)を左折し北に進めば篠山市西紀支所の東北側の丘陵上に西谷城(岡本城)がある。西紀支所からも近い宮田の光照寺境内続き
西谷城域南端の出曲輪跡
…にある五葉松・天満宮側から「健康と福祉の里」大師山遊歩道標識と整備された登山ルートが丘陵部北西・下板井の三尾山弘誓寺へと続く。途中には場違い?な程に立派なコンクリート展望所もあって休憩・ハイキングルートとしても快適だ。
出曲輪・主郭間の西郭
この整備道は弘誓寺境内から続く四国八十八ヶ所観音霊場巡りのミニ巡礼参拝道。帰路は切幡寺大師堂から弘誓寺へと下山するのがいいでしょう。尾根筋は観音堂ではなく地蔵尊を祀る切幡寺大師堂への道を分けて、いよいよ薮っぽい尾根筋に入るが荒れてはいても踏み跡確かで薮漕ぎは不要。
曲輪段を積む主郭西端・再下段の虎口・左手には帯曲輪?
直ぐに切岸状?5m程の急斜面上の独立した曲輪状台地に小さな祠が建つ。西谷城の出曲輪(砦)は大手門か大手筋をかためる番所跡のよう?。是より二つばかり尾根幅いっぱいの平坦段も城域を形成する曲輪・続いて3-4段曲輪が連続する西郭部。その入口部は最下段曲輪の端を捲き上がる部分は虎口か‼!。上部の主郭をとり囲む帯曲輪が北に一段・南側には二段長く延びる(約80m程‼)。
二重堀切・肩堀切(手前左)を経て南谷山へ尾根は延びる南側二段の帯曲輪の下段は南東端で三本ばかり平行に斜面に落ちる畝状縦堀の前で消える。主郭東末端部からの尾根続きには二重の堀切があり、畦状縦堀とも連動している。平坦な尾根筋は堀切から3-40m程にも南斜面に落ちる片堀切(縦堀)が一本。此れよりわりと広く緩やかな登りで展望のない南谷山(点名:西谷3等三角点375m)に続くが山頂にはテレビ受信アンテナ・ケーブル施設が残るだけ。
主郭南側低土塁と二段の帯曲輪・下段の先は畦状竪堀で切れる
西谷城域は先の主郭部:清水向井山(357m)だけの様?。西紀町の川北は丹波黒の産地・此処から西紀トンネルを抜けたところに郷土名産館”黒豆の館”があるが、トンネル上部に西谷城が位置しており、トンネル南出口側には西谷館(岡本館)が在り、岡本丹後守の居館だと云われる。西谷城の築城時期や城主等は不明です。
今年(2015-16)の異常な暖冬にツツジも狂い咲
居館と山城の関係からは岡本氏との可能性も…山城が丹波でも数少ない畝状竪堀から、さらには西谷城の西北方僅か約1.2km地点に板井城がある。山陰の守護大名・山名氏が丹波守護となり奥畑城や宮田荘に山名氏清が築いた城です。
帯曲輪からの畦状竪堀・すぐ左奥に一条、その先は二重堀切へ
また西谷城の北方約2km、佐仲峠に通じる宮田荘西北部の最奥部には小坂城があり同様に城主不明ですが互いによく似た縄張りの城は板井城の支城か?。板井城は室町時代末:山名小太郎(宮内少輔氏時の末裔?)が拠っており天正6年、明智光秀の「丹波攻略」に落城していますので、畦状縦堀の多用等からも西谷城主の岡本氏は但馬山名氏一族か、山名氏家臣団に属した一族だったのかも?。

西谷城域南端の出曲輪跡
…にある五葉松・天満宮側から「健康と福祉の里」大師山遊歩道標識と整備された登山ルートが丘陵部北西・下板井の三尾山弘誓寺へと続く。途中には場違い?な程に立派なコンクリート展望所もあって休憩・ハイキングルートとしても快適だ。
出曲輪・主郭間の西郭
この整備道は弘誓寺境内から続く四国八十八ヶ所観音霊場巡りのミニ巡礼参拝道。帰路は切幡寺大師堂から弘誓寺へと下山するのがいいでしょう。尾根筋は観音堂ではなく地蔵尊を祀る切幡寺大師堂への道を分けて、いよいよ薮っぽい尾根筋に入るが荒れてはいても踏み跡確かで薮漕ぎは不要。
曲輪段を積む主郭西端・再下段の虎口・左手には帯曲輪?
直ぐに切岸状?5m程の急斜面上の独立した曲輪状台地に小さな祠が建つ。西谷城の出曲輪(砦)は大手門か大手筋をかためる番所跡のよう?。是より二つばかり尾根幅いっぱいの平坦段も城域を形成する曲輪・続いて3-4段曲輪が連続する西郭部。その入口部は最下段曲輪の端を捲き上がる部分は虎口か‼!。上部の主郭をとり囲む帯曲輪が北に一段・南側には二段長く延びる(約80m程‼)。
二重堀切・肩堀切(手前左)を経て南谷山へ尾根は延びる南側二段の帯曲輪の下段は南東端で三本ばかり平行に斜面に落ちる畝状縦堀の前で消える。主郭東末端部からの尾根続きには二重の堀切があり、畦状縦堀とも連動している。平坦な尾根筋は堀切から3-40m程にも南斜面に落ちる片堀切(縦堀)が一本。此れよりわりと広く緩やかな登りで展望のない南谷山(点名:西谷3等三角点375m)に続くが山頂にはテレビ受信アンテナ・ケーブル施設が残るだけ。
主郭南側低土塁と二段の帯曲輪・下段の先は畦状竪堀で切れる
西谷城域は先の主郭部:清水向井山(357m)だけの様?。西紀町の川北は丹波黒の産地・此処から西紀トンネルを抜けたところに郷土名産館”黒豆の館”があるが、トンネル上部に西谷城が位置しており、トンネル南出口側には西谷館(岡本館)が在り、岡本丹後守の居館だと云われる。西谷城の築城時期や城主等は不明です。
今年(2015-16)の異常な暖冬にツツジも狂い咲
居館と山城の関係からは岡本氏との可能性も…山城が丹波でも数少ない畝状竪堀から、さらには西谷城の西北方僅か約1.2km地点に板井城がある。山陰の守護大名・山名氏が丹波守護となり奥畑城や宮田荘に山名氏清が築いた城です。
帯曲輪からの畦状竪堀・すぐ左奥に一条、その先は二重堀切へ
また西谷城の北方約2km、佐仲峠に通じる宮田荘西北部の最奥部には小坂城があり同様に城主不明ですが互いによく似た縄張りの城は板井城の支城か?。板井城は室町時代末:山名小太郎(宮内少輔氏時の末裔?)が拠っており天正6年、明智光秀の「丹波攻略」に落城していますので、畦状縦堀の多用等からも西谷城主の岡本氏は但馬山名氏一族か、山名氏家臣団に属した一族だったのかも?。
この記事へのコメント
2016年1月10日の坂井城の記事を拝見しました。その中で、我が家の古文書の最初にある、山名宮内大輔氏時の名を見つけました。
我が家は山名氏清の子孫だと昔から言われていますが、明徳の乱以降のどさくさがよくわかりません。その後姓を変えて、蟄居し生き延びたようなことが書かれていますが、時氏ではなく氏時のことがよくわかりません。時氏と氏時は同一人物ではないのですよね。
何かお分かりでしょうか。
父が早めに他界したものですから、詳しい事が聞けませんでした。
丹波守護職となった足利尊氏の臣:仁木賴章が南朝方に付き代わって時氏が2代目、北方に戻った仁木氏が3代目丹波守護…時氏も応安年間9代目を継ぐが応安4年死去・氏清に代わったが内紛の明徳の乱に追われて敗死。11代以後管領・守護職が消滅するまで丹波守護は細川家が務めます…略…
長い細川政権下の丹波に山名氏姓や山城が残っていることが奇跡の様に感じることも!!。
奥畑城は守護:時氏のとき築城・板井城(篠山市上板井)も庄園官吏と山陰道要衝の地に築城したと思えます。細川政権下の丹波山名氏の動向詳細は、各城レポート最下の索引・参考資料以外よく分かりません。時氏と氏清・両名の1字を拝名できる人物は…?。
板井城は近衛家荘園の宮田荘にあって、氏清嫡男が宮田左馬介…を名乗っていますので、其の広大な宮田荘内だけに…宮内大輔…を名乗った人物がいたか…単に推測ですが
氏時について確証を知り得る情報は個人的に皆無・山名氏系図や古文書の一文(所領や記載年・文書発行年等に関するもの)に活躍時期・履歴がわかるのかも…Web等で発信されている山名家一族について研究されている方のサイトでもわかれば、満足な回答が得られると思えます…。ルーツを追う研究は時間と苦労と忍耐!?…となかなか大変ですが、これからも頑張ってください。