上林城(生貫山城) 綾部市
野田城のある井根山を右に見て新綾部大橋を渡りR27号線を由良川沿い・山家交差点で府道1号(小浜綾部線)に入り上林川に沿った長い流域の谷合いを遡ると三上林があり口上林地区から上林城(生貫山城)のある中央部に中上林地区・奥上林地区から三国峠で若狭高浜への県境まで続く。広大過ぎる荘園内に 平安時代には石清水八幡宮領?・鎌倉時代には神護寺領?、
上林城:本丸櫓台の石垣・上り石積土塁時代を経て享禄4年 (1531)には現: 南丹市の島城・今宮城の川勝氏が侵攻して一時期:一部を領有し天文年間(1532‐55)には相国寺領や仁木氏領(丹波仁木荘?にいて 仁木氏を名乗った土豪:伊勢氏一族らしい?)が混在していたのでしょう。
下記のウエブサイトも参照してください
上林川沿いの城Ⅰ比久尼城・姥ヶ城・瀬尾谷城・弓削城・日置谷城・片山砦・真野城
上林川の山城Ⅱ沼ヶ谷城・赤道城・梨子ヶ岡城・東中山城・佃城・折山城・井根城 他
上林川側:独立丘陵の上林城遠望 上林庄に上林氏が庄園官吏代官として入封し・在地土豪として勢力をもったものか?。「城山とホタルの里」の上林城は遠目にも目立つ独立低丘陵上に東屋展望所がある休養村「上林山荘と研修棟(閉館)」を目標に…。府道1号を右折すれば「綾部観光センタ」なので訪城の起点にして上林川に架かる大手橋を渡ります。
上林城:最下段北西の曲輪上林城(生貫山城)の上林氏こそ宇治に茶園を経営し豊臣秀吉からは宇治茶頭取として宇治茶の総支配を命じられ・徳川家光の代には宇治茶師を務めた一族。「宇治・上林記念館」が平等院の近くにあり宇治茶と上林氏については幕府の茶師を務めた上林春松家の長屋門を潜った記念館で…。
石積井戸跡から北曲輪へ上林山荘前の上林城案内板が登山口で階段道が続き「井戸跡」に着く。石積井戸は金網フエンス に囲まれ雑木と雑草に覆われてはいるが随分大きく深い井戸。上林川の川原位置は低いが 此の井戸の水線は直ぐ其処(近く)にあるようだ?!。散策道先に山荘施設用だった貯水槽?。目前に広い北ノ曲輪があり主郭の高い切岸上に建つ東屋も見える。虎口を詰め上がると下方からの林道と合流して東屋側・城山稲荷社や城址説明案内板もある主郭展望広場に入る。
北ノ曲輪から主郭側も切岸は7-8m程と高いが、北下方にもさらに高い(高低差10m程)・6~70m程続く長く広い腰曲輪 (馬掛郭)が東端の曲輪下へ延びています。ともに綺麗な切岸を落としている。主郭南端には石積櫓台・本丸跡がある。発掘調査後:埋め戻されてはいなかったようだが、荒れるに任せ下草薮に埋もれていた石垣と空堀跡が、再び確認できる状態に、もっとも山上の主郭まで入れる林道もともに整備されている。
南郭と北尾根続き最高所に主郭櫓台上林城は天文年間(1532-55)土豪上林下総守晴国が築城して居城。上林氏は清和源氏の流れをくむ中世丹波の豪族で赤井氏流(荻野・芦田・大槻氏…とは同族と云う?)で南北朝期:為家の曾孫赤井(上林)秀家が足利尊氏に従って功をたて室町幕府の被官として何鹿郡(綾部市)上林庄に地頭として入部し上林姓を名乗ります。
主郭東面犬走り?から主郭東虎口?永正年間(1504-20:元亀年間1570-1573とも?)上林秀家九世の孫・氏忠のとき山城国宇治に移って大規模な茶園を営み・茶業師となり宇治茶の元祖‼?となっています。山城国宇治に移った要因や、当地方や宇治においていて茶業に携わることになった事由等は不明、その子久重も宇治に没した様です。
主郭から北曲輪と馬掛曲輪への高い切岸豊臣秀吉に重用されて宇治郷代官に任ぜられ・江戸時代には幕府の御物茶師の頭取ともなった久重の子…更に孫代?へと続いたよう。上林庄は「大永の乱」大永6年(1526)細川高国方についた赤井氏の侵攻に光明寺をはじめ多くの寺院が焼亡した。上林庄を出たとされる元亀年間ならともかく永正年間だと?だが。
幅広く長い北曲輪から見る主郭の東屋展望所天文2年(1533)細川高国は弟:晴国に君尾山光明寺の再建を命じ勧進を許され、上林丹波守?が此れに充たり寄進・尽力しており土豪として上林一部を領して残留した一族がいたものか?。光明寺参道・綾部温泉近くの山内城主となる高田治忠が信長に付き永禄3年(1560)生貫山城の上林氏等を攻略し、明智光秀が領していた上林庄は天正10年(1582)本能寺の変に斃れ、明智支配を離れると高田氏が山内城を築き生貫山城を上林氏に譲ったとされます…。
再び主郭本ノ丸の石垣櫓台・空堀でも区分している‼!
上林城:本丸櫓台の石垣・上り石積土塁時代を経て享禄4年 (1531)には現: 南丹市の島城・今宮城の川勝氏が侵攻して一時期:一部を領有し天文年間(1532‐55)には相国寺領や仁木氏領(丹波仁木荘?にいて 仁木氏を名乗った土豪:伊勢氏一族らしい?)が混在していたのでしょう。
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上林川沿いの城Ⅰ比久尼城・姥ヶ城・瀬尾谷城・弓削城・日置谷城・片山砦・真野城
上林川の山城Ⅱ沼ヶ谷城・赤道城・梨子ヶ岡城・東中山城・佃城・折山城・井根城 他
上林川側:独立丘陵の上林城遠望 上林庄に上林氏が庄園官吏代官として入封し・在地土豪として勢力をもったものか?。「城山とホタルの里」の上林城は遠目にも目立つ独立低丘陵上に東屋展望所がある休養村「上林山荘と研修棟(閉館)」を目標に…。府道1号を右折すれば「綾部観光センタ」なので訪城の起点にして上林川に架かる大手橋を渡ります。
上林城:最下段北西の曲輪上林城(生貫山城)の上林氏こそ宇治に茶園を経営し豊臣秀吉からは宇治茶頭取として宇治茶の総支配を命じられ・徳川家光の代には宇治茶師を務めた一族。「宇治・上林記念館」が平等院の近くにあり宇治茶と上林氏については幕府の茶師を務めた上林春松家の長屋門を潜った記念館で…。
石積井戸跡から北曲輪へ上林山荘前の上林城案内板が登山口で階段道が続き「井戸跡」に着く。石積井戸は金網フエンス に囲まれ雑木と雑草に覆われてはいるが随分大きく深い井戸。上林川の川原位置は低いが 此の井戸の水線は直ぐ其処(近く)にあるようだ?!。散策道先に山荘施設用だった貯水槽?。目前に広い北ノ曲輪があり主郭の高い切岸上に建つ東屋も見える。虎口を詰め上がると下方からの林道と合流して東屋側・城山稲荷社や城址説明案内板もある主郭展望広場に入る。
北ノ曲輪から主郭側も切岸は7-8m程と高いが、北下方にもさらに高い(高低差10m程)・6~70m程続く長く広い腰曲輪 (馬掛郭)が東端の曲輪下へ延びています。ともに綺麗な切岸を落としている。主郭南端には石積櫓台・本丸跡がある。発掘調査後:埋め戻されてはいなかったようだが、荒れるに任せ下草薮に埋もれていた石垣と空堀跡が、再び確認できる状態に、もっとも山上の主郭まで入れる林道もともに整備されている。
南郭と北尾根続き最高所に主郭櫓台上林城は天文年間(1532-55)土豪上林下総守晴国が築城して居城。上林氏は清和源氏の流れをくむ中世丹波の豪族で赤井氏流(荻野・芦田・大槻氏…とは同族と云う?)で南北朝期:為家の曾孫赤井(上林)秀家が足利尊氏に従って功をたて室町幕府の被官として何鹿郡(綾部市)上林庄に地頭として入部し上林姓を名乗ります。
主郭東面犬走り?から主郭東虎口?永正年間(1504-20:元亀年間1570-1573とも?)上林秀家九世の孫・氏忠のとき山城国宇治に移って大規模な茶園を営み・茶業師となり宇治茶の元祖‼?となっています。山城国宇治に移った要因や、当地方や宇治においていて茶業に携わることになった事由等は不明、その子久重も宇治に没した様です。
主郭から北曲輪と馬掛曲輪への高い切岸豊臣秀吉に重用されて宇治郷代官に任ぜられ・江戸時代には幕府の御物茶師の頭取ともなった久重の子…更に孫代?へと続いたよう。上林庄は「大永の乱」大永6年(1526)細川高国方についた赤井氏の侵攻に光明寺をはじめ多くの寺院が焼亡した。上林庄を出たとされる元亀年間ならともかく永正年間だと?だが。
幅広く長い北曲輪から見る主郭の東屋展望所天文2年(1533)細川高国は弟:晴国に君尾山光明寺の再建を命じ勧進を許され、上林丹波守?が此れに充たり寄進・尽力しており土豪として上林一部を領して残留した一族がいたものか?。光明寺参道・綾部温泉近くの山内城主となる高田治忠が信長に付き永禄3年(1560)生貫山城の上林氏等を攻略し、明智光秀が領していた上林庄は天正10年(1582)本能寺の変に斃れ、明智支配を離れると高田氏が山内城を築き生貫山城を上林氏に譲ったとされます…。
再び主郭本ノ丸の石垣櫓台・空堀でも区分している‼!
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