水分れ公園の桜 Ⅱ 丹波市
R176号は柏原北交差点左折し稲継交差点でR175号に合流する”柏原多田バイパス”と北上へ直進してJR福知山線沿いに春日町歌道谷(うとうだに)に出てR175号に接続するR176号本線!!?に分かれる。直進するR176号のJR石生駅手前約300m程に”水分れ交差点”があり、先の稲継交差点でR175に入り、
高谷川沿いの桜並木と向山連山遠望すぐ(城山トンネル手前)左の側道から城山の南山麓を周る旧R175号?がR176号に合流する地点が[水別れ]交差点でR176号本線を北へ約50m程にバイエリッシャーホーフがJR石生駅へも程近い。水分れ交差点は「水分れ橋」側だが”大河の一滴”を表現してか?モニュメントには気付くが車で素通りするだけなら
橋に気付く人は少ないかも?。交差点を直進する狭い・高谷川沿いの車道が水分れ公園に向かうが日本一低い谷中中央分水界として知られる所です。高谷川沿いに掛かり、南側へ渡る最初の橋が[おおかみ橋]…[身別れ]に通じる[水分れ]橋は京都市内等の[戻り橋]同様に婚礼の際に渡るのを避け、
いし部神社前から此の[おおかみ橋]を渡ったと伝えられる橋。次に[藤の木橋]が公園大駐車場側の交差点にあり藤棚のある小公園<地頭の娘>・古池の大蛇の化身の若者・いそ部神社…と物語の舞台設定は揃っているが花見客の殆どは知ってか・知らずか…いそ部神社側へと高谷川を挟む車道側と土手通しの櫻並木のトンネルへと歩を進める。
西面を空け・三方を囲む丘陵部を縦走出来る向山連山ハイキングコースが通じる。水分れ公園の桜2014年。櫻のトンネルが終わればヒカゲツツジ(石楠花類)のトンネルが向山山中ではたのしめます。此のような場所・位置に在りながら山城遺構が二箇所ある。南方の鳳翔寺近く浄福寺背後の超低丘陵上にも
城砦跡と思える遺構を見るが、向山連山の北の四ノ山に四ノ山砦(天ヶ嶽砦)<仮称>が在る。領主の監視砦にして高所過ぎるが、黒井本城を正面に・朝日城を足下に望む四ノ山砦(天ヶ嶽砦)<仮称>は、明智丹波攻め時の向城か?堀切跡もみえるので丹波に侵攻を繰り替えした更に古い三好(松永)氏関連の砦か?。
階段向が水分れ<黒井川-由良川-日本海へ)・正面<高谷川-加古川-瀬戸内海>水分公園正面奥の滝広場前から”分水界展望所”へ向かうと、石生西河原城(特異な無数の小曲輪群・尾根続き端に二重堀切をもつ)がある。此処もまた誰が何時頃築城したものか城名・城主等は一切不明だが元亀2年(1571)赤井氏先祖ともされる芦田源太兵衛直家が武運長久・子孫繁栄を願って自領地の石負荘塚本の田を寄進した寄進状がある。
柏原八幡宮より古い由緒の延喜式内社いそ部神社は永禄期(1558-70)の再建が伝えられ芦田氏関連の砦とも思えるが、奥まった領域からは領主の城砦より、柏原本陣から氷上石生に通じ・春日黒井に接する位置や、数多い雛壇小曲輪群から成る黒井城攻略・明智軍の前線基地・兵の駐屯基地とも推定するが!!?。

高谷川沿いの桜並木と向山連山遠望すぐ(城山トンネル手前)左の側道から城山の南山麓を周る旧R175号?がR176号に合流する地点が[水別れ]交差点でR176号本線を北へ約50m程にバイエリッシャーホーフがJR石生駅へも程近い。水分れ交差点は「水分れ橋」側だが”大河の一滴”を表現してか?モニュメントには気付くが車で素通りするだけなら
橋に気付く人は少ないかも?。交差点を直進する狭い・高谷川沿いの車道が水分れ公園に向かうが日本一低い谷中中央分水界として知られる所です。高谷川沿いに掛かり、南側へ渡る最初の橋が[おおかみ橋]…[身別れ]に通じる[水分れ]橋は京都市内等の[戻り橋]同様に婚礼の際に渡るのを避け、
いし部神社前から此の[おおかみ橋]を渡ったと伝えられる橋。次に[藤の木橋]が公園大駐車場側の交差点にあり藤棚のある小公園<地頭の娘>・古池の大蛇の化身の若者・いそ部神社…と物語の舞台設定は揃っているが花見客の殆どは知ってか・知らずか…いそ部神社側へと高谷川を挟む車道側と土手通しの櫻並木のトンネルへと歩を進める。
西面を空け・三方を囲む丘陵部を縦走出来る向山連山ハイキングコースが通じる。水分れ公園の桜2014年。櫻のトンネルが終わればヒカゲツツジ(石楠花類)のトンネルが向山山中ではたのしめます。此のような場所・位置に在りながら山城遺構が二箇所ある。南方の鳳翔寺近く浄福寺背後の超低丘陵上にも
城砦跡と思える遺構を見るが、向山連山の北の四ノ山に四ノ山砦(天ヶ嶽砦)<仮称>が在る。領主の監視砦にして高所過ぎるが、黒井本城を正面に・朝日城を足下に望む四ノ山砦(天ヶ嶽砦)<仮称>は、明智丹波攻め時の向城か?堀切跡もみえるので丹波に侵攻を繰り替えした更に古い三好(松永)氏関連の砦か?。
階段向が水分れ<黒井川-由良川-日本海へ)・正面<高谷川-加古川-瀬戸内海>水分公園正面奥の滝広場前から”分水界展望所”へ向かうと、石生西河原城(特異な無数の小曲輪群・尾根続き端に二重堀切をもつ)がある。此処もまた誰が何時頃築城したものか城名・城主等は一切不明だが元亀2年(1571)赤井氏先祖ともされる芦田源太兵衛直家が武運長久・子孫繁栄を願って自領地の石負荘塚本の田を寄進した寄進状がある。
柏原八幡宮より古い由緒の延喜式内社いそ部神社は永禄期(1558-70)の再建が伝えられ芦田氏関連の砦とも思えるが、奥まった領域からは領主の城砦より、柏原本陣から氷上石生に通じ・春日黒井に接する位置や、数多い雛壇小曲輪群から成る黒井城攻略・明智軍の前線基地・兵の駐屯基地とも推定するが!!?。
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