岩本城と牧氏陣屋!! 丹波市
全国足立姓の祖と云われる山垣城主:足立左衛門尉遠政は源頼朝に仕えた足立遠元の孫。「尊卑分脈」によると丹波の名族・足立一族の元祖は藤原(中臣)鎌足の14世遠兼が武蔵国足立郡を領し北条氏に仕えた豪族で15世:久保田遠元が地名の足立姓を名乗った足立氏の遠祖とされ、鎌倉幕府源頼朝の武道指範でもあり・信頼も厚く
黒尾神社参道:谷に架かる石橋の先に黒尾・諏訪神社が鎮まる幕府の要職にあったが北条氏台頭で勢力衰退の足立氏も・遠元の孫(遠光二男)遠政が北条氏に仕え承元3年(1209)中央から遠く離れた氷上郡佐治荘地頭職を任命され関東から入部、最初に居を構えたのが青垣中学校西北裏手の山際にあった光明寺跡付近の上屋敷と妙法寺境内の下屋敷とされる。
黒尾神社鳥居前東北:岩本城
下屋敷・上屋敷北方の小倉の山麓・岩本に岩本城 (足立館)を築いたのち萬歳山に山垣城を築いて移り本拠とした。現在の佐治地区と遠阪地区が佐治荘で要衝の但馬街道沿い中央部の山垣城を中心に、佐治に岩本城・遠阪川沿い街道筋の南玄関口に小和田城・足立家菩提寺の報恩寺近くに八幡山段城・遠阪峠登り口の北玄関口近くには遠阪城・田ノ口城…等で本拠城警護の城砦群を築いている。
佐治宿の北方から山懐へ向かう簡易舗装が切れる直前に黒尾大明神の石鳥居が建つ。左右に石積み囲いの参道は、谷を跨ぐ石橋を渡ると右手奥には足立氏により勧進された諏訪大明神が祀られているが諏訪神社境内に後から遷された黒尾神社が今は主客が転倒し・産土神としての黒尾大明神として崇敬されています。
黒尾神社手前:牧氏陣屋(?推定)小室城の芦田氏共に最古級:鎌倉期の築城だが”岩本城”について、位置や明確な遺構縄張り・資料等を知らず推定の域を出ない…
。20年程に発行されていた旧氷上郡内各町別の埋蔵文化財分布調査報告書の青垣町版に載せてあったような?。牧氏陣屋についても記載されていたかは定かでなく…未調査・不詳です…
同:牧氏陣屋跡!?氷上郡を領した前期柏原藩織田家は三代で改易となり天領となっていたが、奈良宇陀郡から後期織田家が入封後の文化-天保(1804-44)頃の織田家領地は全域の三分の一程となり、亀山藩・三田藩・鶴牧藩・湯長谷藩…等諸藩が郡内村域を150ヶ所程に細分化された極小所領地を支配。他所を横領しても罰則を考えれば引合わないので領地を巡る争い事はなかった様!!。佐治・小倉の前期織田家領地も貞亨4年(1687)には武蔵国(東京・埼玉・神奈川県の川崎・横浜)より氷上郡に500石を加増された牧長高の領有地となった。<兵庫県史>

黒尾神社参道:谷に架かる石橋の先に黒尾・諏訪神社が鎮まる幕府の要職にあったが北条氏台頭で勢力衰退の足立氏も・遠元の孫(遠光二男)遠政が北条氏に仕え承元3年(1209)中央から遠く離れた氷上郡佐治荘地頭職を任命され関東から入部、最初に居を構えたのが青垣中学校西北裏手の山際にあった光明寺跡付近の上屋敷と妙法寺境内の下屋敷とされる。
黒尾神社鳥居前東北:岩本城
下屋敷・上屋敷北方の小倉の山麓・岩本に岩本城 (足立館)を築いたのち萬歳山に山垣城を築いて移り本拠とした。現在の佐治地区と遠阪地区が佐治荘で要衝の但馬街道沿い中央部の山垣城を中心に、佐治に岩本城・遠阪川沿い街道筋の南玄関口に小和田城・足立家菩提寺の報恩寺近くに八幡山段城・遠阪峠登り口の北玄関口近くには遠阪城・田ノ口城…等で本拠城警護の城砦群を築いている。
佐治宿の北方から山懐へ向かう簡易舗装が切れる直前に黒尾大明神の石鳥居が建つ。左右に石積み囲いの参道は、谷を跨ぐ石橋を渡ると右手奥には足立氏により勧進された諏訪大明神が祀られているが諏訪神社境内に後から遷された黒尾神社が今は主客が転倒し・産土神としての黒尾大明神として崇敬されています。
黒尾神社手前:牧氏陣屋(?推定)小室城の芦田氏共に最古級:鎌倉期の築城だが”岩本城”について、位置や明確な遺構縄張り・資料等を知らず推定の域を出ない…

同:牧氏陣屋跡!?氷上郡を領した前期柏原藩織田家は三代で改易となり天領となっていたが、奈良宇陀郡から後期織田家が入封後の文化-天保(1804-44)頃の織田家領地は全域の三分の一程となり、亀山藩・三田藩・鶴牧藩・湯長谷藩…等諸藩が郡内村域を150ヶ所程に細分化された極小所領地を支配。他所を横領しても罰則を考えれば引合わないので領地を巡る争い事はなかった様!!。佐治・小倉の前期織田家領地も貞亨4年(1687)には武蔵国(東京・埼玉・神奈川県の川崎・横浜)より氷上郡に500石を加増された牧長高の領有地となった。<兵庫県史>
この記事へのコメント
小倉と佐治の一部を所領とした牧氏の陣所等は残片情報も知らず、法光寺東の谷間道を入った岩本城手前にある地形に牧氏陣屋を想定していました。
前期織田家領に武州足立郡(東京・埼玉)・相州(神奈川)・上州(群馬)・丹州氷上には500石の知行所を与えられ来丹。知行所が維新時(士分5 足軽1)まで存続していたことは知りませんでした。
足立遠政(岩本城)上屋敷<青垣中学校>と下屋敷<妙法寺> http://tanbakiri.web.fc2.com/TANBAkabutobachi-docu.htm#yashiki
岩本城の東側尾根を越えた所に光明寺跡 http://40437108.at.webry.info/201606/article_8.html があります。光明寺跡には亨和4年(1804)竣工された観音霊場巡拝道があるので、牧氏来住当初は小倉の岩本城手前の推定地?か、青垣中学校西裏手の?寺跡にあったのを隠居所として、維新頃には直ぐ背後の廃寺となった光明寺跡を陣屋として移ったのでしょうか?。
[しずのおだまき…」静御前に因む話なのかどうか、牧氏の手になる随筆も存じませんでした
牧家の家紋は<繋月紋…等>の月紋なのでしょうか? 九曜…や笹紋もあるようですが?
維新前後に存在た陣屋・代官所・藩校や塾跡の殆どが顕彰石碑等も残らず知る人も少ない現実が虚しいですね…
最近知り得た野坂代官所→ http://40437108.at.webry.info/201801/article_9.html も同様ですが、教えて頂いた情報をトリガ」として、もっと深く調査していければ牧氏についても、興味深い事柄が得られるのかもしれません。
ありがとうございました。