三草山城 加東市

先の三草山ブログに山頂部に三草山城があったこと。三草山の山麓では平安時代末期:寿永3年(1184)源義経軍が平家追討の為・須磨の一の谷に向かう際、篠山古市から今田町に入り小野原の布陣した源氏方と、三草山山麓の山口附近に布陣した平氏方が対峙した三草合戦の合戦場であったことを記した。
        三草山山頂神社北側の古い三草山城址碑
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京を発って神戸生田や須磨方面へは西国街道ー山陽道が主街道だと思うが、二手に分かれて遠回り?の丹波方面から進軍したのが源義経。源氏方の動向を監視するため、本拠点を遠く離れた北播磨加東市にまで・わざわざ出っ張って?三草山に監視の砦まで築いていたものか?。
       山頂主郭北面曲輪下方尾根筋下降点の虎口形状
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源平の「一の谷合戦」には”鵯越えの逆落し”の奇襲、其の前哨戦となった”三草合戦”には夜襲…と当時では特異な戦法で勝利した義経の行軍ルート(義経道)は各所々に多くの伝承を遺している。一の谷から屋島・壇ノ浦の平氏滅亡への最大功労者:義経だが義兄の頼朝の怒りを買って追われ自刃した悲運による「判官贔屓」によるものか…?。
     畑コースへの南尾根側曲輪段:高い切岸上部に土留め石列をみる
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三草山城(赤松山城)が築かれた築城時期や城主等の城史詳細は不詳だが「播磨鑑」に赤松円心の5男則友が築くとあり、建武年間(1334-8)頃には則友?が城主であった様だが、建武5年(1338)には丹生山(明要寺を城郭化した丹生山城)や香下寺(香下城)の南朝方の宗徒等が北朝方の赤松・貴志・島津等の土豪に対抗した此処:福田荘(三草山一帯)三草山の戦いがあった 
        南尾根主郭直下の曲輪段石積み
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嘉吉の乱<嘉吉元年(1441)>に,赤松方の宇野能登守国祐500余騎が三草山を堅めたが、幕府軍山名氏との戦いに,戦わず満裕が入った播磨:坂本城に引揚げた様子?。赤松庶流の満政は赤松追討の幕府軍に参戦し、東播磨三郡(明石・美嚢・加東郡)所領を認められたが、嘉吉4年(1444)>幕府にというか!?山名持豊に奪われた満政は三草山城に挙兵して籠るが但馬から出撃してきた山名持豊に敗れ、有馬(赤松)持家を頼って逃れるが受け入れられず逆に討たれてしまった。
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三草山山頂を本丸として北の尾根筋に数段・畑や鹿野コースへの南尾根筋に幾段もの土留め石積や土塁虎口遺構を覗かせる曲輪群を連ねるているが、赤松氏による築城から廃城までの中世山城遺構なのでしょう。登山道が曲輪遺構群を避けて通っているので、古い時代の土塁や土留め石積み・曲輪の切岸や虎口形状等が崩されず遺されているが立入禁止表示ともに早い次期に城址遺構調査を終えられるよう望みたいが…。 


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