彩錦の瑞光寺 多可郡
御食事処 成実からR427号を北へ、KING・まちの駅たかを過ぎると田園風景の正面に妙見山の山容が望まれます。R427は高岸交差点で県道86号(鍛冶屋交差点)への道を分け、杉原川沿いの加美区に進む。高岸交差点の北西側角に城山(貝の城)が在り背後に旧多可町シンボルで秀麗な姿が妙見富士(ふるさと富士)とも呼ばれる妙見山が聳えている。
安楽田から門前入る分岐路に「瑞光寺…」の標識を見て北への車道を直進すると正面に、宇治の黄檗山萬福寺の塔頭の山門に見るような中国風の山門を潜る。此処が集雲山瑞光寺<多可郡多可町中区門前>で北播磨でも最古参の禅宗(臨済宗)天龍寺派。
【禅宗には臨済・黄檗山・曹洞…等があるが詳細はWeb検索等で調べて下さい…】集雲山瑞光寺は元弘2年(1332)赤松則祐(のりすけ)が母の菩提を祀るため、夢窓疎石(夢窓・正覚・普済…等7度にわたり歴代天皇より国師号を賜与されている)の開基により創建されたと伝えられる古刹です。
天正3年(1575)7月瑞光寺の背山(妙見山系)にあった段の城と貝の城が別所氏…の夜襲を受けて落城した際の兵火により全焼してより荒廃していたが、天和3年(1683)10月本山の天龍寺より夢想疎石の十世法孫の文礼禅師により旧在地の東方に伽藍を再建され寺運は再び隆盛した。
しかし享保17年(1732)10月・失火に遭い寺の大部分を焼失してしまったが、その僅か数年後(1735年ころ?)には現在地に再建されたという。県下でも類の少ない江戸中期の禅宗様の伝統手法をよく伝える遺構として、境内の庭園と共に文化財として価値のあるもの。
夢窓疎石【作庭家としての方が有名!!?】は池泉回遊式庭園等設計を手掛けており、瑞光寺の池泉観賞式と枯山水様式を駆使した庭が、礎石による作庭なら南禅寺や西方寺・天龍寺庭園以前のものとして重文級名庭として知られ、さらには紅葉の名所として現状の様な自由に入山鑑賞などは出来なくなっているでしょう。
が…作庭は上記:失火前後の宝永(1704-)頃から元文年間(-1741)にかけてのものらしい…。本堂裏手に石組み・築造されている庭園も、此の時期は紅葉に目を奪われ気付かない?かも。…で今回は遅れ馳せながらの訪山で画像も紅葉鑑賞のみのUPです。貝の城へはR427を少し戻って那珂ふれあい館・東山古墳群から妙見山への登山コース途中から行ける。
瑞光寺側の林道を辿り丘陵上のDocomo無線中継所を目指せば”段の城”の中の段?に着くが、山城探訪なら門前末端の段垣内構居(貝の城・段の城城主:在田<赤松>氏の荒田構居で落城後は三木・別所重棟が但馬八木城に移るまで?拠った)から尾根伝いに下れば築ヶ鼻城)段の城下段・中段?)、上れば高城(上段)に至り、さらに尾根筋は妙見砦から妙見山山頂に通じる。
(瑞光寺については山門前の「歴史街道」案内説明板等を参照)

安楽田から門前入る分岐路に「瑞光寺…」の標識を見て北への車道を直進すると正面に、宇治の黄檗山萬福寺の塔頭の山門に見るような中国風の山門を潜る。此処が集雲山瑞光寺<多可郡多可町中区門前>で北播磨でも最古参の禅宗(臨済宗)天龍寺派。
【禅宗には臨済・黄檗山・曹洞…等があるが詳細はWeb検索等で調べて下さい…】集雲山瑞光寺は元弘2年(1332)赤松則祐(のりすけ)が母の菩提を祀るため、夢窓疎石(夢窓・正覚・普済…等7度にわたり歴代天皇より国師号を賜与されている)の開基により創建されたと伝えられる古刹です。
天正3年(1575)7月瑞光寺の背山(妙見山系)にあった段の城と貝の城が別所氏…の夜襲を受けて落城した際の兵火により全焼してより荒廃していたが、天和3年(1683)10月本山の天龍寺より夢想疎石の十世法孫の文礼禅師により旧在地の東方に伽藍を再建され寺運は再び隆盛した。
しかし享保17年(1732)10月・失火に遭い寺の大部分を焼失してしまったが、その僅か数年後(1735年ころ?)には現在地に再建されたという。県下でも類の少ない江戸中期の禅宗様の伝統手法をよく伝える遺構として、境内の庭園と共に文化財として価値のあるもの。
夢窓疎石【作庭家としての方が有名!!?】は池泉回遊式庭園等設計を手掛けており、瑞光寺の池泉観賞式と枯山水様式を駆使した庭が、礎石による作庭なら南禅寺や西方寺・天龍寺庭園以前のものとして重文級名庭として知られ、さらには紅葉の名所として現状の様な自由に入山鑑賞などは出来なくなっているでしょう。
が…作庭は上記:失火前後の宝永(1704-)頃から元文年間(-1741)にかけてのものらしい…。本堂裏手に石組み・築造されている庭園も、此の時期は紅葉に目を奪われ気付かない?かも。…で今回は遅れ馳せながらの訪山で画像も紅葉鑑賞のみのUPです。貝の城へはR427を少し戻って那珂ふれあい館・東山古墳群から妙見山への登山コース途中から行ける。
瑞光寺側の林道を辿り丘陵上のDocomo無線中継所を目指せば”段の城”の中の段?に着くが、山城探訪なら門前末端の段垣内構居(貝の城・段の城城主:在田<赤松>氏の荒田構居で落城後は三木・別所重棟が但馬八木城に移るまで?拠った)から尾根伝いに下れば築ヶ鼻城)段の城下段・中段?)、上れば高城(上段)に至り、さらに尾根筋は妙見砦から妙見山山頂に通じる。
(瑞光寺については山門前の「歴史街道」案内説明板等を参照)
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