高瀬城 丹波市

JR福知山線谷川駅ホーム北の丘陵上に池ノ谷主計屋敷があり駅西方約200m程で県道86号に出てJR加古川線・福知山線踏切を渡る西側丘陵上には玉巻城がある。観応1-2年短期ながら守護山名時氏の丹波守護代となった久下頼直(時重の次男)の本拠城。西山麓の金屋集落内に久下時重屋敷がある。承久の乱後に久下氏が武蔵国より地頭として栗作郷(久下地区)に来住し居館を構えた所。金屋地区から背後の丘陵部を越えれば、久下氏を頼り二度とも丹波へ逃れた足利尊氏や嫡子の義詮が逗留した岩屋の石龕寺に至る。
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金屋地区から篠山川を越え真南約400mの平地に高瀬氏屋敷(高瀬城)<山南町谷川>がある。JR加古川線沿いの篠山川は谷川駅南~久下村駅西に掛け南部を除きコノ字状に城域を囲み、加古川線と県道77号(バス道も現状バイパスだが旧道は谷川地区内を抜けていた延喜式の山陰道)が通じ播磨路へも篠山川を渉らず連絡する。
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篠山川コノ字状の中程へ斜め南東から流れ出る山田川が城域の西を濠ともなる深い溝谷が自然の要害!?となり南面も大きくカバーする。鍋倉城の西山麓を流れる此の山田川上流は笛路から西脇市門柳や荘厳寺へ、首なし地蔵からは大呂峠を西脇市住吉町や黒石ダムから篠山・今田や三田方面へも峠越えで通じる。川と街道のスクランブル交差点となる要衝位置するのが高瀬城(高瀬氏屋敷)。
        下屋敷?付近から:正面中央が玉巻(久下)城
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「谷川4区公民館」・正一位本丸稲荷大明神の扁額が掛かる台地一帯が城屋敷・城藪の字名:地名を残す!?高瀬城(神社側に枡形状台地や更に西民家付近には深い空掘も!!あったという。本丸稲荷からは南東約300m程)は字名カマエと呼ばれ下屋敷や武家屋敷群があった処か?。稲荷社の北段低く小字:城の下、高瀬城も久下氏配下(一族?)の此等支城群の一つとして街道監視の任に当たっていたものか?。
   正一位本丸稲荷神社
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高瀬城は氷上郡遺跡分布図に高瀬氏屋敷とあるが字名:カマエ・城xxとあるのみで高瀬氏及び城史一切不明。城域を挟んで篠山川を渡らず東西に旧延喜式山陰道の新・旧県道77号で抜けられる車道が通じ久下氏配下の見張り・通信の砦というより通行税を徴収した関所城ではなかったか?。また此の屋敷の主は吉之丞という狐だったといい、人情味ある話の多い狐の伝承を是非知りたいものです。


この記事へのコメント

吉盛ともうします。
2018年04月04日 17:31
高瀬城と紹介されている場所は江戸時代旗本織田家の陣屋跡です。織田家は3000石の堂々たる旗本でしたが維新後没落、絶家となってしまいました。
2018年04月05日 10:48
吉盛様 牧氏陣屋ともに コメント・ご指摘 ありがとうございます。
光明寺跡ブログは → http://40437108.at.webry.info/201606/article_8.html
谷川織田家陣屋は正覚寺南の交差点付近と思っていました。織田家は旗本谷川織田家のみが維新後まで存続しますが其の後は?。
正覚寺西の城山稲荷社は伝承の高瀬城?
播磨・摂津を結ぶ街道筋・舟運には北正面に篠山川があり、久下氏の玉巻城や鍋倉城関連の居館・家臣屋敷等が距離的にも点在していたとも思えます。
藩政・殊に天保頃以後の後期織田藩・旗本織田家の知行所…が谷川で在ること以外詳細知らず…
手掛かりみつけて も少し調べてみます
   ありがとうございます。

ご存知でしたら教えていただきたいのですが
先日豊岡のT君案内で養父町の岡城・法道寺城から石禾の三城(畑たか城…)に向かう尾根途中に在る岡比丘尼城?を訪ねました。市史等に調査記録は無い様ですが、地元では岡城の詰め城?との見解で一部知る人もあるよう。ほぼ四方土塁囲み・尾根側の土塁虎口は明瞭ですが単郭の陣城風情。
和歌山熊野の比丘尼?が 但馬に何故比丘尼の名の城が2-3あるのでしょう?
福井の八百比丘尼に関連するとも思えませんが?
岡の山麓・山手付近随所に寺跡が多いようなので尼僧の庵寺の関する伝承等があったのかも…
吉盛です
2018年04月05日 18:31
谷川織田家の墓所は澁谷の松泉寺で、明治の早い時期に織田家は墓所を維持出来なくなってしまい合葬墓一基としますが、それも今は無縁寄せ墓のなかにあります。ぴくに城と呼ばれる城は全国に多数存在します。共通する特徴は小規模。つまり小さい城の意で尼さん伝説は付会の域をでません。いつかお会いし城巡りに参加したくおもいます。
吉盛です
2018年04月05日 18:47
追伸、高瀬城は存じませんが中世の城舘跡が近世の陣屋となる例は多々。加東郡赤穂郡藩郡代役所がまさにそれ。浅野家断絶後は旗本八木家陣屋に。それから私の記憶に間違いなくば正覚寺には織田家代々の位牌が祀られています。

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