篠倉豊後守屋敷 丹波市

西脇市方面から加古川沿いのR175号はミニ道の駅「山南仁王駅」のある至山山麓の井原橋で佐治川(現:加古川)を渡る。イタリ山から石金山~小野尻峠へ、更に笹ヶ峰へと播磨・氷上の郡境(市境界)を分ける。仁王駅は西方からの佐治川・東方からの篠山川を合わせ此処から始まる旧加古川の始発駅!。
      豊後塚と堀跡(向かいの竹藪を回り込み更に西へ延びる)
画像
此れより上流の佐治川(現:加古川)が氷上郡(現:丹波市)氷上回廊を通り青垣町から但馬 国境へ、一方分水界から由良川へと丹後方面にも抜ける。延喜式山陰道は篠山から柏原へと大山荘を鐘ヶ坂へ抜けるルート迄は篠山味間から阿草へ出る。  
画像
隣接する久下氏の栗作郷から丹波市最南端に位置する山南町井原荘に入り佐治宿に向かった。古墳も多く・聖徳太子の創建・「太平記」の足利尊氏に所縁ある石龕寺は歴史もふかく加古川の南に対峙する播州と接し軍事的にも要衝だが
     古地図(天保8年)に見る溝谷が屋敷(館)跡南を枡形状に流れる
画像
比較的?知られる中世・近世城館は石龕寺背山の岩屋城と、岩尾城(和田地区:旧井原上荘)くらい…。和田地区には近世の鶴牧藩代官屋がある。「山南町誌」には小川地区(井原荘)に篠倉豊後守屋敷<丹波市山南町奥>があり、
       堀・土塁付近藪の東に移されている豊後塚
画像
字名:カマエ、弓形に搔き上げの堀と土塁が約50mあり、古池・藪の中に豊後塚があったと2行ほど説明文がある。屋敷跡や豊後塚の主:篠倉豊後守についての伝承等は不詳。豊後塚の碑文も摩耗し文字も読み取れないが、篠倉一統墓地に「元祖”篠倉金嶽軒道石居士”天明元年(1781)改造営」として祀られているよう!?。 
         屋敷跡背後の圃場に曲輪感がある。イタリ山~播磨境界を望む
画像
”先祖講”に引継がれているものに、町内17ヶ村(小野尻・西谷・西野・小畑・片山・前河(川)・中間?・五箇部(五ヶ野?)・大内・坂尻・奥村・鍛冶村・野坂・草部・小新屋・埜々垣・村森)に都合300町・三百貫の由、篠倉某より嫡子三太夫・二男久治・三男太助・四男奥四郎に対する領地の写しがある。高瀬氏屋敷(高瀬城)に比し、豊後守屋敷は城砦・居館よりは領地官吏の代官屋敷跡と思えます。
 比定地外の西端に曲輪・堀跡・手前は稲荷(荒神)山詰城?への土塁道兼!!?
画像
篠倉氏が在地土豪であったか、播磨加西市方面からの来住かは不明だが40年余り上記を領有していた様。播磨:多可郡鍛冶屋(牧山は含まれていない?)があり、天正14年(1586)前田玄以の武将:近江木戸(滋賀県)の比叡山法師:木戸十乗坊(佐野下総守栄有と改名)が入部し岩尾城主となって統治した時代?か、丹波三郡(氷上・天田・何鹿)を与えられた織田信包が、柏原藩を立藩した前期織田家(慶長3年:1598~の頃とも推察しますが…?。 


この記事へのコメント

この記事へのトラックバック