福知山城 Ⅱ

ゆらのガーデンから城公園の濠に架かる太鼓橋状!?の昇龍橋に向かう。橋の欄干を通しての城址や起立する天守の姿は絵になる。開花時期の桜は濠の水に溶け込み・映り込み・城の石垣に映えて素晴らしい…”朝暉(あさひ)さん”と呼ばれた丘陵の城址に立った60年前!…は「荒城の月」の歌詞も浮かばないほど雑木・草藪に覆われ、
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朽ち懸けた様な?古い建築が曲輪西端にあった。此れが城内に唯一遺されていた銅(あかがね)門番所!!。もと市役所東側の二の丸登城口付近にあった銅門の脇にあった番所といい大正5年(1916)天守台に移築された?…とある。其時から約25年後(1986年)天守台に(模造)天守閣が復元された。兵庫・京都の丹波国を平定、
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丹波一国の国主となった明智光秀は国人領主:塩見氏の居城横山城を大規模改修・此の地を福智山と名付けた福知山城の城主。NHK「大河ドラマ誘致の活動には光秀の本拠:亀山城(亀岡市)や・細川藤孝父子関連には勝竜寺城(長岡京市)・田辺城(舞鶴市)、一時は(丹波市)黒井城の荻野直正が天田(福智山市)・何鹿(綾部市)三郡を領していた事からも各市共催事業として運動が続けられている。
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領民に慕われた領主には柏原藩前期織田家3代目の信勝が祭神として織田神社に祀られ、篠山城本丸に祀られるは、歴代6代から廃藩まで努められた青山氏。光秀は<御霊神社に、天守台側の朝暉神社は寛文9年移封された初代藩主朽木種昌が父の綱綱を藩祖として祀ったもの。校歌には地元の城を誇りとし城主を慕い敬う
       佐藤太清記念美術館と鬼ヶ城・烏ヶ岳の山影
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歌詞の例は多いが校歌に福知山城や明智公を歌詞にした校歌を知らない。校歌が制定された時代と明知光秀=謀反者としての認識の高さからカットされたものか?。謳われる歌詞の多くは市のランドマーク:烏ヶ岳・鬼ヶ城。市歌の…かがやく城が…と福知山音頭に明智氏と福知山城が謳われているだけのよう!!?…


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