石生西河原城 Ⅱ 丹波市
向山連山周回コースで水分れ公園駐車場から観音堂…四ノ山砦Ⅱ、序で珪石山までの縦走を向山連山のヒカゲツツジⅡ記事をアップしているが、珪石山手前分岐を左へは清水山方面への縦走路/分岐を右に珪石山からは激急斜面の下りが続く。
分水界展望所となる石生西河原城長く続くフィックスロープがやっと終わり緩斜面になった途端・浅い堀切状か低土塁が尾根筋を遮断する。幅狭い尾根筋が土橋状に延び其の先は二重堀切の縁まで続く。土橋東側下段には城域最大の曲輪(幅8mX長さ20m程)がある。
夥しい小曲輪段や帯曲輪が尾根上に続く!!此処が石生西河原城城域最奥部・最大曲輪だが主郭とするには疑問が…?、二重堀切と土塁で尾根を遮断する城域最高位置を主郭とするには尾根上の曲輪幅も狭い。此れより城域最下段の分水界展望所にかけて狭い尾根筋に無数に現れる小曲輪も幾多の山城・向城にも無さそうな?特異な縄張り。
珪石山の激下降が修まると堀切?土橋が顕われる小曲輪段を繋ぐ?帯曲輪や最下段郭(分水界展望台)には以前作業小屋があった。跡に残るL字状土塁が其の残痕なのか?は不詳だが、ここからは僅かに広がる正面氷上盆地に横田城・穂壷城へと、加古川に流れ出る流域が眺望できる。
土橋の端は二重堀切・土橋は城域最大曲輪の大土塁でもある!柏原八幡城に本陣を移した明智方にとって、四ノ山砦は直接黒井本城の見張所と南方:指呼の間にある清水山からは其の尾根末端部の柏原八幡城へ黒井城の動向は即座に伝達可能位置にある。本陣からの指示待ち・黒井城攻め最前線駐屯地としての石生西河原城なら即対応できるのだが…?。誰が何時頃築城したものか正式?城名や城主等城史不明だが存在は古くから知られていた。
大曲輪からの二重堀切東屋休憩所・水分れ水汲み場に古城跡説明板が立つ。元亀2年(1571)の古文書に・柏原八幡宮護摩堂への寄進状があり、赤井氏の先祖ともされる?…芦田(赤井)源太兵衛直家が武運長久・子孫繁栄を願って自領の石負荘塚本の田を寄進したとあり、芦田氏の領有地であり持城とも推測できるが
登山道と重なる部分の多い小曲輪群所領地を望まず?且つ袋小路の様な目立たない位置にあって領民らの「逃げの城」か?。天正3年明智の第一次黒井城攻めでは波多野氏等と西から侵攻した際は柏原八幡に陣し、妻木主計助範資が居て出陣準備をしていた石負(石生)砦なり・加伊原新城!が此の石生西河原城かは?知らないが…

分水界展望所となる石生西河原城長く続くフィックスロープがやっと終わり緩斜面になった途端・浅い堀切状か低土塁が尾根筋を遮断する。幅狭い尾根筋が土橋状に延び其の先は二重堀切の縁まで続く。土橋東側下段には城域最大の曲輪(幅8mX長さ20m程)がある。
夥しい小曲輪段や帯曲輪が尾根上に続く!!此処が石生西河原城城域最奥部・最大曲輪だが主郭とするには疑問が…?、二重堀切と土塁で尾根を遮断する城域最高位置を主郭とするには尾根上の曲輪幅も狭い。此れより城域最下段の分水界展望所にかけて狭い尾根筋に無数に現れる小曲輪も幾多の山城・向城にも無さそうな?特異な縄張り。
珪石山の激下降が修まると堀切?土橋が顕われる小曲輪段を繋ぐ?帯曲輪や最下段郭(分水界展望台)には以前作業小屋があった。跡に残るL字状土塁が其の残痕なのか?は不詳だが、ここからは僅かに広がる正面氷上盆地に横田城・穂壷城へと、加古川に流れ出る流域が眺望できる。
土橋の端は二重堀切・土橋は城域最大曲輪の大土塁でもある!柏原八幡城に本陣を移した明智方にとって、四ノ山砦は直接黒井本城の見張所と南方:指呼の間にある清水山からは其の尾根末端部の柏原八幡城へ黒井城の動向は即座に伝達可能位置にある。本陣からの指示待ち・黒井城攻め最前線駐屯地としての石生西河原城なら即対応できるのだが…?。誰が何時頃築城したものか正式?城名や城主等城史不明だが存在は古くから知られていた。
大曲輪からの二重堀切東屋休憩所・水分れ水汲み場に古城跡説明板が立つ。元亀2年(1571)の古文書に・柏原八幡宮護摩堂への寄進状があり、赤井氏の先祖ともされる?…芦田(赤井)源太兵衛直家が武運長久・子孫繁栄を願って自領の石負荘塚本の田を寄進したとあり、芦田氏の領有地であり持城とも推測できるが
登山道と重なる部分の多い小曲輪群所領地を望まず?且つ袋小路の様な目立たない位置にあって領民らの「逃げの城」か?。天正3年明智の第一次黒井城攻めでは波多野氏等と西から侵攻した際は柏原八幡に陣し、妻木主計助範資が居て出陣準備をしていた石負(石生)砦なり・加伊原新城!が此の石生西河原城かは?知らないが…
この記事へのコメント
向山のことなのかと
光秀は多紀郡の八上城と氷上郡の黒井城攻めに・両群境界の金山城に陣しつつ、柏原八幡社を焼き、正確には神社本殿・三重塔背後の尾根上に八幡山城を築き本陣としています。天正3年第一回黒井城攻めに南口の石生方面からは妻木範賢らが侵攻を開始します。妻木等による石負(石生)砦が何処か不詳のようですが、此の西河原城の縄張特異性からも明智軍の駐屯地。北に峰にある天ケ獄砦(仮称)は黒井城・眼下に朝日城を望み、明智方が向城として利用。同じく母坪城主の横田城<ガンジョウジ城>も以降・2-3回に渡る攻略に使用されたと思われます。西河原城に近い浄福寺砦(仮称)も同様で、黒井盆地の喉元・歌道谷(うとうだに)に迫る氷上町側最前線の石生の砦群。
なを南口の石負からは霧山城の波多野宗長(西波多野)、東方の竹田方面からは波多野氏が陣していたが、ご存知の通り黒井城から兵が討って出ると波多野氏が反転・明智軍を挟み撃ち。「赤井の呼び込み戦法」ですね。
石負砦がどの砦を指すのか はたまた黒井盆地になだれ込む南口付近の砦群の総称かは不詳!!?。
尚 柏原八幡から向かう東の峰・譲葉山には織豊系縄張の明智の陣城:譲葉山城(仮称・東郭と西郭)があり、峰続きに西河原城や天ケ獄城城にも繋がります。
かいばらの城山は県民局玄関正面であるかと
いそうの八幡山はどこを指すのかと
思っておりましたら
どこかの登山家さんの本に
出ておりました 八幡山=向山
東小の城山もありここも同じくややこしいですが
東小背後の城山が横田城(カンジョウジ城・幻の氷上城が霧山城か? 此処か?と呼ばれていた)が此処も向山、八幡山が向山と呼ばれたかは知らないが、西河原城・水分れを取り巻く半円状の丘陵は向山連山。水分れ公園内にある「いそ部神社」が”石生”の名の起源のようですが!!
名前や伝承が 一概に誤りとは思えませんので今後も検証は 必要かも…
しかし敵が篭り反抗の基地とも成り得る寺社は焼き払うのが侵攻者の常套手段かも
その主犯を冠する名等を因縁の由緒として(山号や神号・寺社名に)用いるとは思えません!!
明は光明・明王…等 光は光明・円光・西光…等
新道・仏道に繋がりのある言葉で
明智光秀の明や光 でないことは当然ですね
少林寺裏山は八幡山とあり
コメントの意味がよくわかりませんが
荻野家が赤井家から盟主として才丸(荻野直正)を城主に迎えた朝日城 武運の神・八幡宮を祀ったのかも?
勇士十八人あり
福智山城 日向守
♪朝日通れば…朝日輝く殿どころ…当時の臼挽き唄 荻野18人衆
福知山城は天正7年横山城を落とし丹波国を平定して福知山城と改称。福知山城にも「あさひ」はあるが、朝暉神社=藩主朽木氏が父を藩祖として城中に祀ったもの…