丹波茶の里:味間と波多野氏史蹟 篠山市

県下随一の茶の里・丹波茶どころ(篠山市味間奥)は今・新茶摘みが始まったばかり。細長く延びる味間谷に田園と濃い緑の茶畑が 峠に向って続く、旧延喜式”山陰道”は福住から此処を通り、丹波市山南町阿草に出て篠山川沿いに加古川合流点から氷上回廊を北上し但馬へ抜けた。
  大国寺茶まつり:茶摘み体験
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また味間谷を抜け丹波市山南町へ進む旧山陰道(延喜式)の分岐を直進する県道は播州との境界でもある篠山盆地の西端に位置し波多野氏主城の八上城を守る大沢城・佐幾山城・禄庄城がJR篠山口駅西面から味間谷入口から味間中付近にかけて平井山城味間北城・味間南城等の支城や砦が街道を監視・守備していた。
  メイン会場の舞台出演待ち:丹波茶会館内より
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例年6月第一土日の両日”大国寺・丹波茶まつり”が行なわれる。大国寺参道沿い茶畑では”茶摘み”体験や茶娘等の撮影会も…。今年は既に茶壺道中も終わった後…メイン会場以外人出は殆どない。其れよりも寺参道の手前から橋を渡って東側の丘陵裾に祀られる八上城主:波多野秀治公の墓所に向かう。墓碑には「天正6年…6月10日戦死」!!?と刻まれているのだが…。
大国寺と丹波茶まつり Ⅰ  
大国寺と丹波茶まつり Ⅱ  
   八上城主:波多野秀治の墓碑
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羽柴秀吉が別所氏を攻めた三木合戦の過酷な籠城戦の最中/姻戚関係にあった波多野氏の八上城も明智光秀による包囲の凄惨な飢餓作戦に落城した。謀略により捉えられた波多野秀治兄弟は安土城に護送され天正7年6月2日安土の浄巌院慈恩寺で、武士としての自刃も許されず磔により処刑される非業の最期。八上城代:二階堂秀香(波多野秀治に義弟)等将兵も籠城2ヶ月の8月城を焼き落城する。
  波多野甚蔵屋敷の長屋門
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 此の波多野秀治の遺児甚蔵(二男? 3歳)が八上城落城の際女縄手を乳母(実家の味間へ)に抱かれ逃れ、文保寺に入門(11歳)・31歳の時に還俗し源左ヱ門(尉)定吉を名乗って篠山藩主・松平忠国に仕えて味間・大沢・網掛の他、黒石・市原・小野原・木津の代官に任命されている。秀治公供養塔から真っ直ぐ南へ県道に出たところに波多野甚蔵屋敷の長屋門が遺る。
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八上落城後約200年を経て天明年間(1781-89)頃に建立された長屋門。味間の地に225年余りの歴史と共に、高城山から移植されたという…八上落城を語る樹齢425年!!の松が時を刻んでヒッソリと引き継いでいます。味間の地に隠棲していた甚蔵の墓所も此処:秀治墓碑の側に在るのかは確認しなかったが!!


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