明智藪 福知山市

福知山城近くの堀蛇ケ端に通称明智藪の名で知られる蛇ケ端御藪がある。本能寺に信長を討った光秀が秀吉との”山崎合戦”に敗れ京都伏見の小栗栖薮に命を落としたことで知られるのも「明智藪」だが、天正8年(1580)丹波を平定した明智光秀が丹波一国の領主として横山城を改修し福知山城を築き奥丹波の拠点とし福知山城下の町割りの基礎をつくった。
  「ゆらのガーデン」から望む福知山城
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由良川の氾濫を防止する対策として、光秀が人工的に竹を植林して築いた堤防をも「明智藪」と呼ばれている。堤防が…藪…と呼ばれる一因には壕内側を土塁代わり・竹林は強靱な防御帯にも成り得るのでは!?…と、篠山城南馬出の東南部に残る竹藪が黒岡川の流れを付替え作られたもの(堀ともなる川は埋め戻されている)
お城通りの「福知山河川国道事務所」水門から音無瀬橋を望む
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…が其の2年後には福知山城には甥の秀満をおいて本拠城の亀山城(亀岡市)に移った。ゆらのガーデンから福知山城内へは自然の城濠となった法川に架かる太鼓橋(昇龍橋)を渡る。北に流れ出る法川は、東側の土師川が由良川に流れ出て約3-400m下流で合流する?ようだが自然の流れは由良川が法川に流れ込み、
 土師川が由良川に合流する約400m程下流まで延びる明智藪
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行き場をなくした水が逆流により溢れ今も「ゆらのガーデン」・音無瀬橋左岸周辺に浸水被害を出している。合流地点を更に下流へと延ばせば背水の影響は小さくなるかも…?。此の河道を付け替える”背割り堤”で竹の根を土留めの補強として進められた治水工事が「蛇ケ端御藪(通称:明智藪)」と云う。
 背割り堤は水門先が福知山城の搦手口?:城内へ物資輸送の運河の様!?
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福知山城の挾間からも真っ直ぐ由良川に伸びる「明智藪」が望めるが、氾濫防止の意義は否定しないが由良川を外堀とし、城へ直接荷揚げの船運の運河(水路)としての利用価値が高いようだ。福知山城からJR福知山駅やR9方面への「おしろ通り」を跨ぐ陸橋に先東に「明智藪」・西向かいに松村家住宅<指定文化財>が建つ。
  明智藪(背割り堤)がもっと延びていれば由良川の逆流を少しは緩衝できたのかも!!?
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大正ロマンを感じさせる洋風建築横を抜け西側へ降りると、和菓子舗で有名な「○音衛門」の前に。付近が京口京街道の要衝監視が、唯一の通行路を開かれていたのが京口橋なら…、○音衛門は以前:市民病院北方の住宅内にあったが、城下に移り此処が本店になっている。どちらの店も旧グルメ関連ブログに残されていれば… 周辺情報は・いつか・また… …


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