首切地蔵 丹波市

首切地蔵尊は平安時代末期の寿永2年(1183)倶利伽羅峠に平家軍を壊滅させた木曽義仲が京都へ進軍してきたため、平家一門は六波羅を焼き公卿やお姫様達が京を落ち丹波路を此処まで逃がれてきたが落人狩に捕えられ・奥山深い首切沢で
高山・猿藪を望む:地蔵尊手前の公園・登山口はパワースポット!!?
画像
悲運の最期を遂げたのを伝え聞いた里人達が、碑を建て弔ったのが始まりとされています。六波羅の高官達は首切地蔵尊から「大坂道」と呼ばれる山越えを摂津三田方面か、大呂峠から住吉川沿いに西脇…摂津神戸の福原(平清盛が造営・遷都の計画だったが未完!?)に向かうつもりだったか?。
画像
平家一門にとって続く悲劇は:寿永2年の倶利伽羅峠に大敗により平家政権の崩壊、上記のように京から旧山陰道を丹波路への逃避行・また福原に戻った平氏も市街地・邸宅を焼き払い都落ち…翌寿永3年福原や須磨浦・一の谷の戦い・そして寿永4年の屋島・壇ノ浦合戦で平家の最終章を迎える。
画像
山南町谷川の首切り地蔵尊については、H19年実施された丹波市検定に「首切り地蔵尊は何体祀られているでしょう…」との問題があった。6体なのか7体なのか、それ以上なのかの回答が示されずいつも疑問に思うことが或る。
画像
本来なら六道輪廻の思想に基づく六地蔵として祀られた自然石の六石(6体)が正解と思うが、問題なのは堂内には更に石造の地蔵尊一体が祀られている。墓所もない場所なのに?…7体が正解なのでしょうか?。
 地蔵尊上の延命水(地蔵令水)取水場
画像
今では7体?(更にミニ地蔵も背後に隠れるように置かれていたりするが…!!)祀られており春秋の2回の大祭には修験の行者による大護摩焚きが行なわれ、首から上の願い事が叶うとされ病気回復・受験の合格祈願に訪れる参拝者が多いが、今日は地蔵茶屋のランチと霊験ありの延命水(地蔵令水)をいただきに…
画像

首切地蔵尊 関連ブログ  天狗山高山・猿藪や大呂峠
 秋色を求め地蔵の森へ(2007年)  隠れ紅葉の名所Ⅵ 首切地蔵尊(2010年) 


この記事へのコメント

この記事へのトラックバック