野坂(依藤氏)代官所 丹波市

野坂依藤氏について…依藤氏の研究文献「播磨の国人領主依藤氏の動向(依藤保氏著)」の謹呈本を、著書編纂に協力された”野坂依藤氏”の歴史とルーツ研究の同郷の士”YORIさん”より頂き野坂代官所の位置を知り改めて”丹波志和田本”や小川村誌第一集・氷上郡誌・山南町誌や過去の訪城レポートを読み返してみた。
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野坂代官所依藤の姓氏について「丹波志」や和田村(山南町和田)野添宗祇の再校による「郡内姓氏録(丹波新聞社 昭和47年)」にも?載せられていないが、其の野添氏による”丹波志和田本<文化元年>”巻の七 姓氏之部 山西一に「依藤氏は”村上源氏赤松末裔、三木城主別所長晴(長治)と戦い落城。しかも太郎左衛門が依藤野(加東市)に逃れ・羽柴秀吉と戦い討死…」ともある?。
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嫡男太郎左衛門方晴が氷上郡野坂村(山南町野坂)へ来住し郷士となり、次男治郎左衛門末は依藤野の下小田村にあり慶長19年(1614)卒…位牌也足寺(山南町梶)にあり?…其の末:野坂依藤党今文化元年(1804)に至り七代目依藤裕八方昶。”定紋:丸ノ内二ッ引・替紋:九曜”との記載がある!。軍記は兎も角・古文書や地方史誌の内容
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鵜呑みには注意が寛容ではなく肝要…ですね 野坂は元禄6年(1693)の出戸から独立し、旗本織田氏(谷川陣屋)【<注>柏原藩織田家ではない】と鶴牧藩水野氏(和田に陣屋を置いた)に分領されている。氷上郡志野坂の項に水野氏…とあるが、奥の篠倉豊後守代官領地からみても鶴牧藩水野家代官ではなく、天保・弘化・嘉永(1830-1854)年中…野坂依藤氏は旗本織田氏(谷川陣屋)代官。
  野坂代官所跡からイタリ山と手前中央に旧氷上郡内最大規模の丸山古墳
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依藤平八郎(方敬)は書をよくし、国学者野々口隆生の門人となり、和歌を能くし雅号!?“方敬”を称し天保10年(1839)寺子屋「松寿軒」を開いた…いまも代官屋敷がある…とある。野坂依藤氏の祖は依藤太郎左衛門方友【天正6年:三木合戦の前哨戦に別所氏が細川荘の冷泉為純・為勝父子を急襲、其の救援に向かったのが東条谷の小沢城主方友?だが、時既に遅く悔やんで自刃したという】嫡男方信と云い其の祖は赤松(出羽守三郎)則友で三草山城主也?とも…。
  R175号から:正面中央建物奥の竹藪付近が代官所跡
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元禄8年(1695)織田(近江守)信休により柏原藩後期織田家が立藩するまでの45年間は天領だった氷上郡44ヶ村に正徳年間(1711)頃:岩屋・井原を除き村森・奥・野坂の地等は柏原藩織田家領から正保の頃:川勝丹波守、小堀氏が領し…文化ー天保(1804-44)頃には更に織田家弱体化を図る幕府政策と監視強化か?、鶴牧藩水野家・湯長屋藩内藤氏・杉浦・柴田…等数多くの譜代・旗本領で領地は細分化されている。


この記事へのコメント

YORI
2018年01月27日 14:20
天々さん、こんにちは。

野坂代官所のレポートアップ有難うございます。

「播磨の国人領主依藤氏…」は、かなり読み込まないと複雑だと思いますが、要点をきっちり抑えておられていてさすが天々さんだと思いました。

なお、野坂の依藤氏の説明箇所で、野坂墓地にある墓碑に刻まれた文字(今は全文判読不能な状態になっていますが)で、赤松出羽守三郎則友が祖と言うのは確証がありません。
この部分は真実ではないと思ってます。
それと、冷泉を救援した小沢城主は「依藤太郎左衛門…某」とだけ分かっていて、「方友」かどうかこれも確証がありません。
野坂墓地の墓碑の後ろの文字からはそのように読めますが、これが正しいのかどうかは不明です。
この点だけ宜しくお願いいたします。

篠倉豊後守屋敷跡が野坂田代官所の近くにあったとのこと。
昔は篠倉氏と依藤氏の繋がりが何かしらあったと考えるのは自然なことですね(^^)
今度帰省したら時間があればぜひご案内頂ければ嬉しいなと思います。

私よりも少し年長の方達から聞いた話ですが、野坂代官屋敷跡は子供の頃に大人達からあの場所が「代官屋敷」と教えられていたそうです。
旧住居表示でも「野坂一番屋敷」にあたるので間違いないと思います。
更地になっているようですが私有地でもあり、付近を部外者(他の市町村の人)があまりウロウロするのは憚れるので、今度兄に付いてもらってゆっくりと見学して参りたいと思ってます。

私の方は今年3月に小学校の同窓会を開催するとの連絡がありました。
今回6回目だそうですが、卒業後初めて行けそうなので半世紀ぶりに参加しようと思ってます。
奥村にも同級生がたくさんいましたので、みんなと会えるのは楽しみです。
その前に出来れば一度帰省出を考えてます。
その時はまたご連絡させていただきますね。
YORI
2018年02月09日 23:48
天々さん、こんばんは。
先日はたくさんの貴重な資料を有難うございました(^^)
まだ全部には目を通せておりませんが、興味深く拝見しているところです。
ところで上記ブログの記事にある、
「依藤氏は”村上源氏赤松末裔、三木城主別所長晴(長治)と戦い落城。…
の部分は、依藤氏が長治と戦っているように思ってしまいますが、丹波志では「長晴が羽柴筑前公と戦い落城」になると思いますね。
丹波志はその後述として、依藤氏も「同じく羽柴公と戦い討死す」とありますが、その事実はないようです。

それから、小川村誌第二集の依藤方敬の記載では、今まで知らなかった事が詳しく書いてあったので本当に嬉しかったです(^^♪

引き続き時間を見て読みふけるつもりです(笑)
2018年02月10日 16:41
YORIさん 資料の件無事届いて良かったです CDや城郭縄張図等 ゆっくりジックリ!!見ていって下さい
丹波志・丹波志和田本共に三木合戦勃発初期:細川荘の冷泉家を救援の依藤氏についての経緯なら、いずれも有り得ない?不思議さが作為を感じさせます。別所氏配下にいた家臣の依藤氏?についてならわかりますが、新興赤松の別所氏が勢力維持の為旧赤松家の依藤氏を東条谷から追い、加西の在田(赤松)氏も多可郡に追われ、播磨守護となった別所氏傘下に入ったとは思えず?、其の地に機能したか?、在田氏も長年宿敵の山名氏と鉱山を介し通じていたようですネ!!?。存命し秀吉と戦った?…としても、徳川の江戸期になって反秀吉方としてなにか救済される道があったのかも…?ですね。
文化人:方敬氏については、小川小学校の前身・推行社のこと等 調べられれば 記念石碑が建立出来るほど 進めていきたいですね。  では…

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