石禾谷の城Ⅱ 石禾古城 養父市
石禾(いさわ)三城”畑たか城(石禾城)・石禾上城・石禾下城”:此のときは北西方の養父市境の宮内から石禾下城~石禾上城(石禾古城)~石禾城(畑たか城)を往復、今回は東方の朝来市岡(岡城・法道寺城>)集落から…近年発見されたらしく在地の
岡城から…上城(古城)の切岸も曖昧な曲輪群が現れる!!古文書含む郷土市史や遺構発掘調査報告も未報らしい?城址のブログ報告は後日として、岡城から背後の北西への尾根続き・目的の城址から更に激急斜面を詰める。前回:宮内から辿った尾根筋に合流するピークが石禾上城(石禾古城)
上城の主曲輪(三方尾根筋の分岐点)石禾下城と石禾上城は残存遺構状況からみても段曲輪を並べる南北朝期の古城風情。但馬国石禾庄には南北朝の中庸期:観応2年(1351)下野国(栃木県)阿曽郡阿曽沼郷の地頭職にあった阿曽沼氏が此処に所領を賜って来住したと云われる。
上城北尾根上の段曲輪南北朝期の阿曽沼氏により石禾下城から上城…更に僅か50m程に近接する石禾城(畑たか城)へと・此の時期に築城されていったものか?。石禾上城(石禾古城)は北尾根の石禾下城側・岡城・法道寺城への東尾根側に切岸も曖昧な小曲輪を並べ連ねているだけ。上城から僅か50m程の至近距離にある畑たか城も
上城の城域北尾根末端付近の落穴!!?同時期に築城されていったのかは不詳だが、古風な二城に比し「石禾たか城」は二重堀切・竪堀・帯曲輪等遺構を備え
其の後も修築・改修された縄張りは中世戦国時代の城主を岩崎氏と推定される単郭様の城。訪城を東面の岡集落から辿ったが余りにも急登!!。遺構現状からも竹田城方面の南面を意識した山名氏家臣団内紛時期や、秀吉「但馬攻め」を含め山名氏勢力の山城か監視砦と思えたが?

岡城から…上城(古城)の切岸も曖昧な曲輪群が現れる!!古文書含む郷土市史や遺構発掘調査報告も未報らしい?城址のブログ報告は後日として、岡城から背後の北西への尾根続き・目的の城址から更に激急斜面を詰める。前回:宮内から辿った尾根筋に合流するピークが石禾上城(石禾古城)
上城の主曲輪(三方尾根筋の分岐点)石禾下城と石禾上城は残存遺構状況からみても段曲輪を並べる南北朝期の古城風情。但馬国石禾庄には南北朝の中庸期:観応2年(1351)下野国(栃木県)阿曽郡阿曽沼郷の地頭職にあった阿曽沼氏が此処に所領を賜って来住したと云われる。
上城北尾根上の段曲輪南北朝期の阿曽沼氏により石禾下城から上城…更に僅か50m程に近接する石禾城(畑たか城)へと・此の時期に築城されていったものか?。石禾上城(石禾古城)は北尾根の石禾下城側・岡城・法道寺城への東尾根側に切岸も曖昧な小曲輪を並べ連ねているだけ。上城から僅か50m程の至近距離にある畑たか城も
上城の城域北尾根末端付近の落穴!!?同時期に築城されていったのかは不詳だが、古風な二城に比し「石禾たか城」は二重堀切・竪堀・帯曲輪等遺構を備え

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