穂壷城 2 丹波市
穂壷城(母坪城・稲継城)は高見城から北に延びる氷上と柏原の町境尾根の最北末端を加古川に沿うR175号線に落とす。此の先端峰(猪の山)に主郭を置き東西30m・南北350m程の狭い急斜な稜線上に本丸台・物見台・帯曲輪等13~14ヶ所もの曲輪跡や土塁・堀切・竪堀・池跡の遺構が残る
穂壷城城域南端二本の大竪堀(左)

R175号線沿いに加古川に流れ出る柏原(本郷)川が穂壺城域の東面を流れ、「水分れ」からの高谷川も穂壺城北東・R175号まで天然の二重の濠を形成。加古川に合流(付近は加古川の逆流により氾濫していたが、現在は合流地点付近まで背割り堤が約300m延びる)水城として分類できそうな要害を呈しています。穂壷城城域南端二本の大竪堀(左)
同 竪堀(左)沿いの三段曲輪(城域最大曲輪?から上二段曲輪)比高僅か5-60m程の低い丘城だが東・西・北面の三方は急な崖となって攻防の利を占めており、南面の尾根へは堀切を越えて妙見砦・泉山砦・鴨野城へと、尾根上に 点々と削平地が続き、高見城へ一連の城塞群が形勢されている。
建武年間(1334~38)丹波守護仁木頼章が高見城の支城として築き頼章の家臣が拠る。氷上郡(丹波市)の中央部に位置し僅か157mの城跡からは柏原町・氷上町から青垣町にかけての氷上盆地を見渡せる。主要街道と加古川水路交通の要衝と要害地は戦略的にも重要な拠点。
主郭部南端土塁曲輪(櫓台)右下に二本大竪堀・西に一本・正面下に三段曲輪天文2年(1533)多紀郡(篠山市)波多野晴通が細川晴国方につき細川晴元に背いて晴元方の部将・赤井伊賀守忠家を攻め落している。元亀・天正年間(1570-92)には稲継壱岐守が守っていた。天正7年5月頃・攝津播磨側からの明智の援軍として侵攻した丹羽長秀ら連合軍の攻撃に、氷上南部の諸城(久下城・石龕寺城等)は落城。
主郭部北端の二重大堀切同年8月には一挙に侵攻を速め北上する連合軍に包囲されてか?…明智光秀軍の細川藤孝・忠興父子に攻められ落城します。

二重堀切下暖曲輪に降りる土塁道戦いの最中に聞こえてくる笛の音に、攻め立てる織田方の軍勢も暫し攻撃の手を緩めて聞き惚れていたが、翌晩には急遽夜襲をかけてきた。大勢の前に一押しに足らぬ小高い山の出城は遂に落城する。 城主・稲継壱岐守はこの折討死にしたとも、弟:左門と共に市島町上牧に落ち、後に兄弟は福知山城主:有馬玄番頭に仕え、子孫は筑後久留米にいるともいわれます。
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