八上城南東砦 篠山市

篠山川沿い・篠山盆地のほぼ中央部に位置する丹波富士(高城山462m)には多紀郡代に就いた波多野氏が天文年間に築いた丹波三大山城の一八上城があるが幾多の合戦渦中に巻込まれ,弘治年間?には松永(弾正)久秀に城を奪われるが
       磯宮八幡・宮山砦側から八上城遠望
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永禄9年(1566年)秀治が奪還。天正3年(1575)黒井城攻略の際・明智方に付いていた波多野氏が突然黒井城荻野氏との謀事により光秀を敗走させた”呼び込み戦法”以後・八上城攻略が始まる。三木合戦に次ぐ城攻めの飢餓包囲には
          明智方向城となった宮山砦
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種々の悲話・伝承が残される。波多野方及び光秀向城の多くは八上城の国指定に向けての調査報告で成されている筈だが、それでも未調査の埋もれた城砦遺構は残っている筈。八上城からの東尾根先にはR372号(京街道沿いに)弓月砦
        宮山砦に対峙し朝路池・市ノ谷入口守備の安明寺砦
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其の南東先端には安明寺砦があり、目前の磯宮八幡宮側の独立低丘陵に付城の堂山砦(元は波々伯部氏か?)とは6ー700m程で対峙している。弓月砦は京街道の要衝監視。安明寺砦は八上城の重要な曲輪朝路池に至る谷筋の登城ルート入口監視砦。
          朝路池に至る市ノ谷南向かい尾根先端
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八上城・殿町側へも通じる安明寺砦とは谷を挟む南側の・八上城への尾根筋には、生命線「朝路池」登城ルート監視・防衛の八上城側砦?や、反対に八上城に近接して光秀の向城が築かれているかも…!!。朝路池への市ノ谷と野々垣の谷に挟まれた尾根筋東末端に八幡神社があり、
       八上城への尾根上…野々垣側への二段曲輪!?
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八上城へ向けトレース。直ぐ古墳!…野々垣の谷へ落ちる枝尾根に2段程の曲輪?も観る。其の後も各曲輪?らしい平坦地形はあるが間が離れ過ぎ相互関連も遺構の痕跡自体も不明確。しかし地図上:朝路池への谷ルート監視・殿町への峠越えを阻止出来るルートが交差する地点至近距離の
       八上城南東砦:八上本城側に正対する曲輪段(主曲輪?)から
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標高約400m程には幾段かの曲輪全てが八上城側を睨む八上城南東砦<仮称>を確認。中世城郭研究家:高橋氏に同行・彼の所見も加味!?して…八上城域最南端曲輪までは目と鼻の先・深い谷を挟んで僅か2-300mに八上側の曲輪群・
         同:曲輪段下方から…
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八上主郭へ約500m程の至近距離。天正6年以降?、兵糧攻めに体力も精神的にも追い詰められた籠城兵には、抵抗を続けるか投降するか?で意気も衰退しており、相当ダメージを与えて脅威・緊張感もマックス!!。持場の曲輪を死守せよと号令されても城兵の抵抗は少なかったと思えます。
         八上城南東砦先端物見台?よりの八上本城
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此程に敵との至近距離に築城されていることは、曲輪最下段には向城に例の少ない?浅い堀切痕が残り、推測ながら落城迫る天正6年後半?、包囲網を狭め八上城近くに向城を狭め兵を移動:投降・脱走兵を受入れて?の共同作業か。堀切から平坦な尾根先端に出ると突然谷に落込む断崖状。
        馬駆場付近からの野々垣尾根:中央の左峰が八上城南東砦
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谷筋・正面には朝路池両サイドから尾根先に延びる稜上の郭・上方に八上主郭の山上を望む。八上・殿町分岐尾根からの南尾根筋は三田市側母子や永沢寺方面から八上・城へ、合戦の兵糧輸送ルートと推定するが、此処は次回トレースすることにして、八上城側の朝路池から芥丸---藤之坂へと降る。


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