龍ヶ鼻砦Ⅱ 丹波市
龍ヶ鼻砦Ⅰでは、黒井城東曲輪から北方望む龍ヶ鼻砦ー百間馬場の稜線手前の枝尾根上の平坦地形に祠を見て訪ねてみた。この短い枝尾根の北斜面下の谷筋に細い流れをみて、龍ヶ鼻砦からも至近距離の貴重な水場と思えた。
石の城:黒井城主尾根に戻り北へ約300m程・主尾根筋が向きを東にかえて下降していく基点の峰頂部付近が龍ヶ鼻砦。尾根筋の主郭部は思ったほど広くもなく削平も粗く・曲輪段差も曖昧だが、主曲輪の西面から北面下部に掛けては切岸も明確な4段ばかりの
土の城:左右に土塁を築く黒井城西ノ丸曲輪が半円の弧を描いて築かれている。急造の砦のようで技巧を凝らした曲輪の配置や空堀・土塁等は見当たらない。黒井城を背にして:本城を護るように西の丸や千丈寺砦は西を、東出丸や多田砦は東を、此の龍ヶ鼻砦も西北面に対し
北尾根最後の登り:龍ヶ鼻砦(山頂部)本城を望む側に曲輪段はない。白毫寺側から千丈寺砦・西太鼓の段・西の丸に向かう搦め手道を守備・警戒する見張りの最前線基地。龍ヶ鼻砦の築城詳細は不詳だが、明智軍の第二次黒井城攻め頃の守将は白毫寺とは東北に尾根 西北斜面にのみ築かれる段曲輪1一つ越えた余田谷を領していた余田監物為家の嫡男:半兵衛が黒井城に入り「龍ヶ鼻砦」の守備に付き、余田城の城兵の多くが半兵衛に従ったと云う。余田氏は天正2年(1574)荻野直正に攻められ落城・其の軍門に下りるが
西北斜面にのみ築かれる段曲輪2直正の信任を得て家老職の一人となっており天正6年(1578)光秀軍の黒井城攻めに為家は余田城に残り、落城の際・美和荘乙河内から黒井城へ脱出を図るが僅かな兵と最期を遂げた岩は切腹岩”監物岩”の伝承を遺す
龍ヶ鼻砦主郭東端:低い段差の曲輪が2段程…!?

石の城:黒井城主尾根に戻り北へ約300m程・主尾根筋が向きを東にかえて下降していく基点の峰頂部付近が龍ヶ鼻砦。尾根筋の主郭部は思ったほど広くもなく削平も粗く・曲輪段差も曖昧だが、主曲輪の西面から北面下部に掛けては切岸も明確な4段ばかりの
土の城:左右に土塁を築く黒井城西ノ丸曲輪が半円の弧を描いて築かれている。急造の砦のようで技巧を凝らした曲輪の配置や空堀・土塁等は見当たらない。黒井城を背にして:本城を護るように西の丸や千丈寺砦は西を、東出丸や多田砦は東を、此の龍ヶ鼻砦も西北面に対し
北尾根最後の登り:龍ヶ鼻砦(山頂部)本城を望む側に曲輪段はない。白毫寺側から千丈寺砦・西太鼓の段・西の丸に向かう搦め手道を守備・警戒する見張りの最前線基地。龍ヶ鼻砦の築城詳細は不詳だが、明智軍の第二次黒井城攻め頃の守将は白毫寺とは東北に尾根 西北斜面にのみ築かれる段曲輪1一つ越えた余田谷を領していた余田監物為家の嫡男:半兵衛が黒井城に入り「龍ヶ鼻砦」の守備に付き、余田城の城兵の多くが半兵衛に従ったと云う。余田氏は天正2年(1574)荻野直正に攻められ落城・其の軍門に下りるが
西北斜面にのみ築かれる段曲輪2直正の信任を得て家老職の一人となっており天正6年(1578)光秀軍の黒井城攻めに為家は余田城に残り、落城の際・美和荘乙河内から黒井城へ脱出を図るが僅かな兵と最期を遂げた岩は切腹岩”監物岩”の伝承を遺す
龍ヶ鼻砦主郭東端:低い段差の曲輪が2段程…!?
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