胡麻塩砦(仮称) 篠山市
丹波三大山城の一八上城は過去:幾多の合戦渦中に巻込まれているが、殊に天正3年(1575)丹波黒井城攻略の際・明智方に付いていた波多野氏が突然黒井城荻野氏との謀事により光秀を敗走させた”赤井!?の呼び込み戦法”…と呼ばれているが
天狗岩山頂:手前の曽地砦側に岩場(黒井城主は荻野直正):翌天正4年以後:明智光秀により黒井城ともに八上城の攻略が始まり天正5年には旧氷上・多紀両郡境には黒井城と八上城の分断を図る金山城が築かれ、中国攻めの軍議決裂で始まった羽柴秀吉の三木合戦同様、
天狗岩からの曽地谷八上城攻略に対しても、周辺の城砦群を落とし付城として改修する等・包囲網を縮めながら飢餓作戦。先のブログでは:悲惨な飢餓作戦には、兵糧攻めに籠城兵の体力も脅威・緊張感で精神的にも追い詰められ・
曽地砦:八上城への北尾根筋に並ぶ段曲輪群戦意喪失に功を奏し始めた頃・直近まで迫る向城の八上城南東砦<仮称>を挙げた。此れより真南へ延びる尾根筋が野々垣から突き上げる348mピーク(東仙寺跡:東仙寺砦?)を更に南へ進むと曽地からの尾根【点名:野々垣385mに曽地城】と合い
曽地奥砦(高野山城)付近より八上城と城下町だった殿町西南へ向きを変えるジャンクションピーク天狗山433mの西下部に曽地砦433mや曽地奥砦(高野山城)500mがある。曽地から曽地奥へ曽地谷を詰め後川へ向かう谷を城見谷・曽地尾根筋の城砦は京都側から曽地へ・摂津側からは後川から侵攻・一時八上を征した内藤氏ら三好勢の城砦群だったか?。
胡麻塩砦<仮称>主郭1今では歩行通行も困難な曽地奥から殿町への峠越も、昔は通常に往来があったようで、此のルート走破後に高橋氏による曽地地区の聞き込みに、曽地奥で胡麻塩・奥谷川に厠谷(せんちたに)名を収集。467m地点から峠近くのCa420m付近までの急斜面上約130ー50m程に小曲輪を見て、
胡麻塩砦<仮称>主郭2兵糧輸送ルートの峠通過を監視・抑えの胡麻塩砦<仮称>(曽地奥/奥谷)。近年に於いても重なる豪雨災害に谷筋は深い谷溝になっているが・おそらく牛馬も往来できたと思える峠越えで林道そばの奥谷池に出てきた。

天狗岩山頂:手前の曽地砦側に岩場(黒井城主は荻野直正):翌天正4年以後:明智光秀により黒井城ともに八上城の攻略が始まり天正5年には旧氷上・多紀両郡境には黒井城と八上城の分断を図る金山城が築かれ、中国攻めの軍議決裂で始まった羽柴秀吉の三木合戦同様、
天狗岩からの曽地谷八上城攻略に対しても、周辺の城砦群を落とし付城として改修する等・包囲網を縮めながら飢餓作戦。先のブログでは:悲惨な飢餓作戦には、兵糧攻めに籠城兵の体力も脅威・緊張感で精神的にも追い詰められ・
曽地砦:八上城への北尾根筋に並ぶ段曲輪群戦意喪失に功を奏し始めた頃・直近まで迫る向城の八上城南東砦<仮称>を挙げた。此れより真南へ延びる尾根筋が野々垣から突き上げる348mピーク(東仙寺跡:東仙寺砦?)を更に南へ進むと曽地からの尾根【点名:野々垣385mに曽地城】と合い
曽地奥砦(高野山城)付近より八上城と城下町だった殿町西南へ向きを変えるジャンクションピーク天狗山433mの西下部に曽地砦433mや曽地奥砦(高野山城)500mがある。曽地から曽地奥へ曽地谷を詰め後川へ向かう谷を城見谷・曽地尾根筋の城砦は京都側から曽地へ・摂津側からは後川から侵攻・一時八上を征した内藤氏ら三好勢の城砦群だったか?。
胡麻塩砦<仮称>主郭1今では歩行通行も困難な曽地奥から殿町への峠越も、昔は通常に往来があったようで、此のルート走破後に高橋氏による曽地地区の聞き込みに、曽地奥で胡麻塩・奥谷川に厠谷(せんちたに)名を収集。467m地点から峠近くのCa420m付近までの急斜面上約130ー50m程に小曲輪を見て、
胡麻塩砦<仮称>主郭2兵糧輸送ルートの峠通過を監視・抑えの胡麻塩砦<仮称>(曽地奥/奥谷)。近年に於いても重なる豪雨災害に谷筋は深い谷溝になっているが・おそらく牛馬も往来できたと思える峠越えで林道そばの奥谷池に出てきた。
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